栗本 薫 真夜中の天使4 [#表紙(表紙4.jpg、横180×縦261)]     15 「じゃ、乾杯。ワンマン・ショーの成功を祝して」  ふたつのグラスが、かちりとふれあった。良はほのかにピンク色がかったシャンペンを眉をひそめて眺め、それからにがい薬でも飲むようにひと息に咽喉に流しこんだ。女が、豊かな胸を震わせて笑った。 「嫌い?」 「まずいや」 「子供ねえ」  俗に「みゆき御殿」と呼ばれている、成城の豪華な邸の居間だった。  みゆきはあれこれと手のこんだ料理をテーブルにととのえたその部屋の、どっしりしたカーテンをひき、灯を消して、具合よく並べた三つの大きな蝋燭のゆらゆらするあかりだけにその豊満な姿を照らし出させるようにしていた。それは、この大歌手が、ひそかに怯えている老いと容色の衰えへの不安をうかがわせた。 「そんなふうに流しこんだら、味もわかりゃしないわよ。こうやって味わうのよ。最上級のお酒よ」 「ぼくはそっちのほうがいいや」 「じゃこれをあげるわ」  みゆきは別のビンをとって、良のグラスに注いだ。ジン・ライムの、瓶詰カクテルである。良があまりうまくなさそうにそのすっぱい飲物をすするのを、みゆきはいかにも可愛いというまなざしで眺めていた。  みゆきはゆったりした緑色の室内着を着ている。みゆきの態度や、彼女が用心深くしつらえた室内の具合などには、母親のような年齢の女が、若すぎる情人に気をつかうと同時にその母親ぶった心づかいを押しつけてくるような、奇妙に秘密めかした息苦しさが感じられた。それは良にはわずらわしかった。  良はやけのようにカクテルを飲みながら、この女は別にぼくを愛してるわけじゃないのにと考えていた。  みゆきという女が、良にはわからない。女は、いつでも、良には多少うっとうしい謎としか思えない。少なくとも男の欲望は愛や恋でないまでも、欲望それ自体ではある。ところが、女ときたら、見栄だの、計算だの、或は単に自らの力をためしたいとかいうさまざまなものがぶらさがり、からみついて、女の欲望というのは決してすっきりとしていたことがない。そういうのを、淫らと云うのだろう、と良はその冷淡で何事にもどうでもいい心の中で肩をすくめるようにして考えていた。  白井みゆきがどんなつもりで、自分を欲したのか、それはどうでもいいことだが、時として、それはおそらく、それまでの習慣上目の前の獲物を見逃すことのできない、狩猟蜂の本能だったのかもしれないと良には思えた。  芋虫を狩って産卵し、その子に芋虫を食わせて育てる狩猟蜂の雌は、年をとって卵を産む機能がなくなっても、本能の強いままに芋虫をさがし、役に立たぬ産卵管をいたずらに芋虫にさしこむのだという話を、良は本で読んだことがある。  それとも、それよりはむしろ、華やかな恋愛歴でも知られた彼女が、いよいよ金で若い男を買うしかなくなる年齢になったのではないかというひそかな怯えが、佐伯という便利で狡猾な情人がありながら、目の前にあらわれた二十も年下の美少年を手に入れることに女としての自恃を賭けさせたのか。  だがみゆきは良の関心をつないでいる自信はなかった。彼女は良を手に入れたと思うと、あれこれと物を与え、庇護を与え、母親ぶったふるまいをしてみたがり、結局自らそれを逃れようとしてかえって正確に、金で若い愛人をしばりつけるうとましい中年女の所業に落ちこんでいることに少しも気づかないでいた。  それとも、実のところは気づいているのか。山下国夫の内面と同様に、白井みゆきの心の動きなども、良には何の興味もない。 「あたしは真ちゃんを裏切ってるのね」  最初に良を誘惑したあとで、みゆきが呟いたとき、良は何を云っていやがると思った。それは、みゆきがお膳立てした誘惑の舞台で、良はけだるい気持から成行きにまかせていただけだったからである。  そのときも蝋燭の灯がついていた。ふっとそれを吹き消して、室内が闇に閉ざされた、と思ったとき、良の顔が熱い手にはさまれ、ぬめぬめした唇と香水の匂いが良をつつみこんだ。 「教えてあげたい──可愛い」  良は熱いむきだしの内臓に呑みこまれたような気がした。それは少年に倦怠と嫌悪と、そしてたしかにある種の安楽な思いを誘った。  良はみゆきに導かれてベッドにもつれこみながら、そのまま何もせずにからだを胎児のかたちにまるめてみゆきに抱かれていたい、と思った。そうしたら、みゆきを嫌いではない、と思った。  しかし、みゆきの粘つく手は良の服にからんで来、ボタンを巧みにはずしはじめた。良は濃密な闇の中で目を閉じ、人形のように、女のなすにまかせた。 「何を考えてるのよ。黙ってしまって」  良は驚いて目をあげ、みゆきを眺めた。そのことがあってからみゆきと寝たのは一回か二回だけしかない。みゆきにとっても、初心な少年を手に入れることだけが彼女の虚栄に媚びれば、あとはたえずそれをほのめかしていれば気が済むらしい。  欲望の処理のためなら佐伯の方がはるかに巧みなのにはちがいなかった。みゆきは佐伯を失うつもりもないし、また佐伯がまだ彼女をはなれたがらぬという自信もほのめかしていた。 「良ちゃんは、無口ね」  みゆきは良をのぞきこむようにして笑いかけた。 「そうかなあ」 「いつも、そんな目、して、何か考えていて、私には全然何を考えてるのか教えてくれない」 「何も考えてないもの」 「嘘よ。──ほんとう云いましょうか。あたし少し良ちゃんが怖いのよ」 「怖い? ぼくが?」  良はきれいな声を立てて笑った。 「どうして」 「何だか──あたしの知ってる、どんな男の子にも似てないわ。こんなにきれいなだけじゃなくてよ」 「わかんない。ぼくは他の子とちがう?」 「全然、ちがうわ。何だか──何て云うのかしら。良ちゃんて、ときどき、どこかちがう国──ううん、ちがう星の人みたいな気がするときがあるわ。何を考えてるのか、どう感じてるのか、どう行動するのか、何となく、つかめないのよ。あたし、真ちゃんとなら、そんなこと考えたこともないんだけれど」  そうだろう、と良は思った。あんたと佐伯のすることなんて、一つしかないに決まっている。良の思念は毒を含んだ。朝も昼も夜もあればっかりだ。  みゆきは良の沈黙を誤解した。それとも、誤解したふりをした。彼女は済まなそうな表情で、良の手をつかんでひき寄せた。 「つまんないことを云ったわね。ごめんなさい」  みゆきはいつでも良のほうがみゆきに首ったけにのぼせあがって佐伯をたえず嫉妬しているというような、みゆき自身は年上の女のゆとりをもって駄々っ子のような恋慕を受けとめてやっているような、そんな芝居をする。それが良にはおかしくてならない。きっとみゆきには、良との関係をどう受けとっていいのか、これまでの豊富な経験からも判断がつかないのだろうと良は思っていた。良は彼女にはそのきらめきに魅せられてしゃにむに手に入れてみたものの、使いみちのさっぱりわからない、贅沢な品物のようだった。 「怒ったの」 「別に」 「なら、よかった──またそんな目、私の云ったの、そんなところよ。この目だわ」  みゆきの右手が良の手をつかんだまま、左手の指がのびてきてテーブルごしに良のまぶたにふれた。 「きれいだけれど冷たい目、それでいてうっとりしたような目なのね。この目よ、あたしを魔法にかけるのは」  みゆきの指が良のまぶたを撫でて、目を閉じさせた。同時に、右手につかんだ良の手に唇をもってゆく。 「きれいで細い手ね。なんにもしたことのなさそうな手ね。つくりものみたいにきれい」  みゆきはその指に歯を立て、力をこめた。 「いたいよ」 「云うこと、ききなさい」 「いつでもきいてるじゃない。ぼくは、あなたの云うとおりじゃないの」 「良ちゃんは、憎らしいわ。どこからどこまで、きれいすぎるわ。やっぱりちがう星から来たみたい──あなたは、女に劣等感を起させちゃうわ。安心してあなたと並んでいられる女なんて、そうはいないわ」 「そう?」 「どうでもいいみたいね。良ちゃんはいつも、何でも、どうでもいいのね」 「あなただってそうでしょう」 「かもしれないわ」  みゆきを人は浮気な女とか、多情な女とか呼んだだろう。だが、それはあたっていなかった。  良にはみゆきがわかる。みゆきや佐伯のような人間にとっては、すべてが芝居の中なのだ。みゆきはいつでもひたむきに、いじらしいほど一心に、与えられた役柄になりきろうとする。  数知れぬステージで数知れぬ生を生きてみせるみゆきや、観客のいないベッドでやはり芝居を演じつづける佐伯にとっては、ほんとうの意味での自分自身などというものは、とっくになくなってしまっていた。みゆきはその点ではたしかに可愛い女と云うべきだった。  いつでも彼女のような人間には自分自身はない、ただ与えられたイメージの中に自分を見つけるだけだ。タフガイで売り出した最初の夫と結婚したときは、貞淑な古風な女に、バンドマスターの大石と恋をしたときはビリー・ホリデイのような女に、彼女は常にひたすらなりきろうとしていた。  佐伯の前で、彼女は若い情人に尽すと同時に庇護を与えるパトロネスだったし、それでそう自らを思いこんでいたのだ。いまは、若い男と少年を同時に愛するというドラマチックな役柄が彼女のあらゆる身ぶりやことばに聡明で倦怠にむしばまれたフランス女めいたものをまといつけさせていた。  ほんとうは彼女が聡明なのか、愛情深いのか、誠実なのか、そんなことは誰にもわからないのにちがいない。  みゆき自身にもだ。みゆきの生はステージの上にあり、それをはなれた部分は反対にそここそが彼女のステージであるところなのだ。悲劇の役柄、背徳の役柄。彼女とその周囲に、これこそほんとうだと誓えるようなものは何もない。  それが良は好きだった。みゆきと佐伯とのたわむれは実に安全で、何の厄介事もひき起さぬのがはっきりしていた。こんなことは、滝や山下などの決して知り得ぬ世界だろう。そこで良はひどく安楽なのだ。  もっとも、常にそこにはまた、見すかされる危険がちらついていた。かれらは誰も、すべてが芝居だということを認めることだけを恐れている。それが芝居の崩壊なのだ。  これは唯一のかれらのルールで、だから良はみゆきの不手際ゆえにみゆきを嫌悪し、佐伯の単調さゆえに佐伯を憎むことがときどきあった。それは裏がえしにされた、良自身の見すかされることへの憎悪である。  はじめて「みゆき御殿」に案内されたとき、装った初心な少年の演技を見すかしてかれを侮蔑した結城修二への、恥にいろどられたかっとからだの燃えるような憎悪を、いまだに良は忘れてはいなかった。  それは手ひどい無礼、といってわるければ、ルールを成立しえなくしてしまうゆえにあってはならないルール違反なのだ。結城や滝のようなれっきとした一本立ちの男は、それぞれのたしかな≪自分≫を持ちその上に足を踏みしめて立っている。山下ですらそうなのだ。  だがかれらは、買われるものであり、買うふりをしているものであり、そうした男たちにいいように扱われているものにすぎなかった。かれらは男たちのいないあいだに着せかえごっこをためしてみる男たちの人形なのだ。それに対して結城が加えたことは、人形をけちらして分を知らせる傲慢な狼藉にひとしい。 (どうして、こんなときに、あんな奴のこと、思い出さなくちゃいけないんだ、畜生)  良は激しく体内にこみあげてくる、古い怒りの残滓をごまかそうと手当りしだいにみゆきの手を握りしめて思った。 「どうしたのよ?」  みゆきの声はこんどは明瞭ないぶかしむ調子をひそめていた。 「どうもしない──」 「良ちゃん」 「ここへ来て」 「どうしたの?」  みゆきは嬉しそうに立ってテーブルをまわって来ると、良の頭に手をおいた。みゆきの胸の谷間に、良は頭をもたせかけた。 「甘えん坊ね。どうしたっていうの、おかしな子──」 「何も云わないで。そうして、抱いていて。ぼく──あなたの匂いが好きだ」 「あなたはおかしな子ね。私には、わからないわ、あなたって子が」 「何も云わないで」  良は手をのばしてみゆきの頭をひき寄せ、唇を求めた。  二人はしばらくそうして抱きあっていた。 「向うの部屋へ──」  やがてみゆきがかすれた声で囁き、二人はもつれあうようにして立ちあがった。 「ぬがせて」  みゆきが囁く。良はみゆきのガウンの紐をひっぱった。彼女は下に何も着ていなかった。 「電気を消して」 「あなたが、見えないよ」 「だめ、消すのよ」  寝室の電灯が消えると、ふたりのもつれこんだひろいベッドのスプリングがきしんだ。 「となりの部屋──」 「え?」 「蝋燭を消して来なかった。危いよ」 「いいわよそんなの」 「火事になるかもしれない」 「すぐにユリちゃんが片付けにくるわ」 「みんな──知ってるの、ぼくのこと」 「何も云わせやしないわよ。みんな、私が養ってるんじゃないの」 「すごいな」 「良ちゃんらしくないわ、そんなふうに気にするのは」 「きょう、ぼく少しおかしいんだ」 「どうしてよ。何かあったの?」 「そうじゃないけど」  ことばのあいまに吐く息はしだいにあつく、荒くなっていく。みゆきの手が良のからだを這いまわる。  良はぼんやりと、このベッドでいつも佐伯とみゆきがからみあうのだ、と考えていた。これもそれではやはり、姦通の一種ではあるのだろうか。  滝は何というだろう。もっとも、滝は何でも知っているということを、良もうすうす感づいてはいる。滝の倫理観念や道徳律も、一般のそれからはだいぶへだたったものだ。良には、滝が問題にもしないという気もしたし、またひとつふたつ小突かれるような気もした。 (まあ、どうだっていいけど。たいしたことじゃないもの)  別にみゆき、ないし佐伯との関係に、取り立てて興味があるわけでも、執着しているわけでもなかった。もっとも、そう云い出すと、自分の中に、それでは何かちがうものへの興味や執着があるのかどうかもいいかげんあやふやになってゆく。  少年のからだの上に、豊かな肉置きのからだをのしかからせて、みゆきの喘ぎが耳についた。みゆきは常に良をリードせねばならぬと信じている。良はみゆきの動きのままに身を預けながら、ふと山下のことを考えた。 (怒ってるかな。怒ってるだろうな──すっぽかしちゃったんだから)  その夜は日東劇場での一週間のワンマン・ショーの打ちあげで、スタッフは祝賀会をやろうと騒いでいた。山下はその前の夜、泊らせた良をマンションへ送ってくるときに、ふたりでお祝いをしようと囁いていた。 「もう、無理は云わないからさ。何か、欲しいものはないのか? なあ、良──甘えろよ。もっと甘えてくれよ。何でも云ってくれよ……そうだ。いっぺん、すごいレストランへ連れてってやろうか」  山下は三十何階建のビルの天辺の、クリスタル・ルームからの夜景とフランス料理が売り物のレストランの名を云った。良は興味をひかれた。だが、その前にみゆきからも、家へ来いという口約束をさせられていたのだ。 「すてきだな」  良は云った。 「でもスタッフの人が打ちあげパーティーって云ってるのにぼくいないとわるいでしょう。乾杯だけしてから、何とかうまく抜け出すよ」 「じゃ劇場の前で待っているよ」 「だめだよ。連中どこへ行くのかわかんないもの。じゃこうしよう。ぼくがそうやって抜け出してから直接そのクリスタル・ルームへ行こうか」 「ひとりで来られるか?」 「あんなこと、云ってらあ」 「そうだな。その方がいいか──じゃ待ってるよ。それなら、なるべく早く来いよな」  そう約束したのが、つい今朝のことである。しかし、その約束をどう他をごまかして守ろうかという考えもないままに、ショーがおわり、スタッフ一同で近くのコンパへ行って乾杯が済んでからもぐずぐずして皆の賞讃なぞをきいていた。山下はそのビルの天辺のレストランで、みゆきは「みゆき御殿」で、それぞれに良を待ちかねているだろう。面倒くさい、と良は思った。 「ねえ、滝さん」  スタッフたちと話に興じている滝の腕をうしろからひっぱると、滝はうるさそうにふりかえった。 「なんだい」 「ちょっと来てよ」  端へひっぱって来、白井先生と約束しちゃったって、云ったじゃないの、と云うと、滝は眉をしかめて考えこんでいたが、 「しょうがないな、じゃ行けよ」  ぶっきらぼうに顎をしゃくった。 「どっちみち、餓鬼のいるところじゃない」 「ちぇ、ひどいこと云う」 「清に送って貰え。──十一時にまにあうように、迎えに行くよう云っとくからな」 「ひでえな、見張りつき?」 「お前ははめを外すからな」 「だけどさ、滝さんだってほんとはまだ白井先生のご機嫌損じない方が得策だと思ってるんだ。そうでしょう」 「お前の知ったことじゃない。さあ、清を呼んでこいよ。スタッフにはおれがうまく云っとくからな」  それで良の心からは、すっかり山下との約束はすべり落ちてしまったのだった。清に送り迎えさせようというのが、また嘘をつくのではないかと滝が用心したためならご生憎だ、滝は清から、たしかにみゆきが待ちかねて迎えに出ていたときくだろう。 (どうせ、ぼくなんか嘘っかつかないんだぐらいに思ってるんだからな)  そう考えて、良は滝をだしぬいてやる満足感を味わった。山下の方はそのまますっぽかしてしまったわけだが、いまごろはまだそのクリスタル・ルームとかで、東京の夜景を見ながらむなしく良を待っているだろうか、と考える。きっと、スタッフの方からうまく抜け出せないでいるのだと、やきもきしているだろう。 (怒るんなら、怒ったらいいや。ぼくはあんなうるさい人いなくたってせいせいするんだから)  闇は、良をつつみこんでぬめぬめとうごめいていた。良の目に、途方にくれて、じりじりしながら、スタッフの行ったさきもわからぬままに、じっと待っている山下の哀れな顔が見えた。みゆきの熱い息づかいが耳朶をくすぐった。 「ね……」 「なあに──」 「となりの部屋で、ごそごそ云ってる」 「ユリちゃんが、片付けに来たのよ」 「そうかなあ」 「そんなこと、気にしないで。ドアは鍵、かかってるし……だめ、何も考えちゃ」 「ああ……」 「あ……良ちゃん」  囁きかわすあいまに、ベッドのスプリングがきしんだ。 「愛してる──可愛いのよ……どうしていいかわからない──」  呻き声がたかまってゆく。それは、ひたすら、絶頂をめざしてかけのぼろうとする喘ぎに変っていった。みゆきの手が力をこめて少年のからだにからみつき、叫び声がその咽喉を洩れようとした。そのとき、ドアがあいた。  喘ぎと呻きが、断ち切られたようにやんだ。みゆきのからだが硬直し、ふたりのからだがはなれ、ふたりは何のことばも発せずに、隣室からの淡い光を背にして立った男の姿を見ていた。 「真ちゃん──」  みゆきがかすれた声を出した。佐伯は逆光で、どんな顔をしているのかわからなかったが、黙ったままうしろ手にドアをしめ、ロックした。再び室は暗くなった。佐伯の服をぬぎすてる音がさらさらと耳を打った。 「真ちゃん」  みゆきがもう一度云った。佐伯はかまわずに、手さぐりでベッドにからだをすべりこませた。 「真ちゃん、あんた──」 「ひどいよ、仲間はずれは」  佐伯の声は笑いを含んでいた。闇の中で、彼の手が、すばやく良の手をさがしてきて、どうだいと暗号を送るように握りしめた。 「おれも一緒に可愛がってよ、ママ」  みゆきがヒステリックな笑い声をひびかせた。佐伯の声の中の何かが、急にゲームをすりかえてしまっていた。何も変っていはしないのだ。ゲームのルールが変っただけなのだ。  このステージでは、そのルールを受けそこなうことだけが、侮蔑されるべきことだった。佐伯の態度は、何もかも、わかっているのだと云っていた。彼は自分にとってのみゆきの価値、みゆきにとっての自分の値打ちをわきまえている。同時に、良の価値にも盲目ではない。 「おれたちは、うまくいくよ。とても、うまくいくよ、ママ」  佐伯は囁いた。囁きながら、片手でみゆきを、片手で良を抱き寄せた。 「嫉いたりするほど、野暮じゃないよ。ねえ、ジョニー──きみは可愛いよ」 「いやな──真ちゃん、知ってたのね」 「ママはおれに隠しごとなんかできないよ。あんまり、正直で可愛いんだから」 「ばかね」  みゆきがくすぐられたような咽喉声で笑った。佐伯の手が彼女を弄っているのが良には感じられた。同時に、もう一方の、良の手をつかまえた手が、その手をひき寄せて自分の下腹部へ持っていった。 「あんたって──悪人よ」 「それは、ママのことだよ」 「良ちゃんが、びっくりしてるじゃないの」 「この子はおれが仕込んでやるんだ。ねえ、ジョニー、おれたち、義兄弟なんだからな」 「いやな子よ、あんたは」 「ママこそ──抜けがけしてさ」  佐伯は笑った。 「さあ、坊や──こっちへおいで」  良は目を閉じていた。開いても、どうせ何も見えぬ闇だったが。その闇の中で、みゆきはたえず咽喉で笑っていた。その声の中にはすでに濡れた欲情のひびきがからんでいた。良はもつれあった肉のあいだに佐伯の手でひっぱり寄せられた。 「可愛い子だ、びっくりしなくていいんだよ──おれが、何でも教えてやるよ」  かれらは、たしかに、何がどうでもいいことで、何がどうでもよくないかを、知らない、という点で、良と似ているのだった。あるいはかれらこそが、良の知りえた最も自分の同類に近い生物だったかもしれない。良はかれらにひかれぬかわりに、決してかれらにおびやかされることがない。  これは新種のゲームだった。翌朝にはけろりと秘密なまなざしをかわすにすぎない、ゲームだった。  良のからだはみゆきのやわらかい肉と、佐伯のひきしまった筋肉につつまれていた。  ベッドサイドの室内電話が鳴り、小さな赤いランプがついた。 「今西さんのお迎えの付人の方が見えてますんですが」 「何ですって」  息をはずませて不機嫌にみゆきが受話器に怒鳴り、いそいで通話口を手で押さえて声をあげた。 「だめだったら、ちょっとやめてよ」  もう十一時か、と良は思った。滝は帰ってはいまい。 「どうするの」  みゆきは不満そうにきいた。良は困ったように黙っていた。佐伯が受話器をもぎとった。 「ユリちゃん? 少し待ってて貰えよ。コーヒーでも出してさ」  そのまま返事をきかずに通話を切る。同時に彼の手が何かしたらしく、みゆきがあっと快感の呻き声を立てた。 「わるい人ね──ユリちゃんびっくりするわ。松村くんに云いつけるかもしれないわ。ユリちゃん、良ちゃんが好きなんだもの」 「知らないね、そんなこと」 「あ……あ! だめ──だめよそんな……もう……」  激しくスプリングがきしんだ。錯綜した感覚の酩酊が三人を巻きこんでいく。うわごとのように互いの名を呼びあい、もつれあいながら、手のこんだ輪舞を踊っている、三十八歳の女と、二十五歳の青年と、十八歳の少年をつつみこんで、再び闇の中に、喘ぎ声と熱気とが昂まってきた。       * * *  取り付けられたチャイムを押すと、待ちうけていたようにドアがあいて、ミミの笑顔が彼を迎えた。 「どうしたって云うのよ?」  いきなり云う。ミミは男物のパジャマの上だけを着ていた。髪がくしゃくしゃなのが、男の子のようで可愛らしかった。 「いきなり電話してくるから、驚いちゃった。まあ、あなたの襲撃は大歓迎だけどね。お入りなさいよ」 「色っぽいな。危険だぞ、ミーコは」 「何云ってんのよ」  ドアが背後にしまるのをききながら、滝はミミをひき寄せて接吻した。 「酔ってる? お酒もういいの」 「どっちでもいい。すごく、いい気持なんだ。ますます、いい気分になった。ミーコを見て」 「いやねえ、だいぶ飲んだの」 「三次会までさ。稲垣たちなんか、これから本格的に飲むとわめいてたよ。とても付合えんから、逃げてきた。ふいに電話したりして、済まなかったね。でも、いてくれてよかったよ。なんだか急にたまらなくきみに会いたくなった」 「まあ」  ミミは奇妙な口調で云って、滝を見た。それから、もっと奇妙な歪んだ微笑をうかべて云った。 「あたしのこと、そんなに気をつかってくれなくたっていいのに。あなたは、知ってるはずよ、ここんとこ、もうずっとそんなに忙しいあたしじゃないわ」 「ミーコも飲めよ」 「そうするわ」  ミミは肩をすくめて、すらりとのびた脚をはねあげて滝のとなりに腰をおろした。滝は二つグラスをとって、水割を作った。いつでも、滝の好きな酒の用意のしてある部屋だった。  ミミはふしぎなくらい魅力的な、白いパンティーの上に青のパジャマの上着だけの恰好で、滝の渡したグラスをしきりに手の中でまわして、少し考えこんでいた。  少し脱色した長い髪が顔を半分隠して、目の上にもつれかかっている。化粧もなしの顔は滝には好ましかったが、目の下に黒いくまが出来、疲れたように口のはたにくっきりと一条の線が走って、そのために彼女の顔は皮肉そうに、翳を帯びて見えた。 「せっかくうれしいことを云ってくれたのに、今夜は、あんまりいいお相手になれないわ、きっと」  ミミは低い声で云った。 「ここにすわって、考えこんでいたのよ。憂鬱なことばっかり。──どうせ、泊っていかないんでしょ。ううん、そうじゃなくて──ほら、もうつまんないこと云っちゃったわ。ごめんね」  ミミは滝の顔を見た瞬間の、突発的なはしゃぎようが消えるにつれて、沈んだ表情になっていた。滝は、その肩に手をまわした。 「良ちゃんは?」 「白井みゆきのご招待だとさ。どうせ、おそいんだろう」 「それで、来てくれたのね」 「おい、ミーコ」  滝はかるい気持で云った。滝は気持よく酔っていた。万事好調の波に乗っているし、良はすっかりおれの手中なんだ、という思いがいつになく滝をうき立たせていた。彼は、好きなこの女をも、きょうだけは深刻な気分になどさせたくなかった。 「嫉いてんのかい? きみらしくないな」  云ったとたんに滝は後悔し、少し酔いがさめた。しかしミミは滝を見あげて笑い出し、少し不自然なくらいに笑いつづけた。それから二人はグラスをあげて乾杯した。 「嫉いてんのよ」  ミミは滝の肩に頭をもたせ、グラスを持っていない方の手で滝のシャツのボタンを弄りながら云った。 「あたしらしくないわね。でも、何があたしらしいのかなんて、わかんなくなっちまったのよ、もう。あたしって、きっと思ってたよりずっと弱い人間なのね。あなたは、きっと、あたしを買いかぶってたのよ」 「どうしたんだ、ミーコ。原因はなに? 話せよ、いつもおれがきみの助けを借りるみたいにさ」 「話したって、しょうがないの」  ミミは投げやりに云った。 「ひとつひとつはなんでもないちっぽけなことが、ちょいとばかし重なっちまったってだけ。それで──それで、たまたま今夜は、とっても疲れちまったんだわ。だめ、やめてよ」  ミミは滝の、胸をさぐろうとする手をとめた。 「あなただってそんなときあるでしょう」 「ある。だが、ミーコがいままでひとにそんなところを見せたのは、はじめて見たよ。おれも、ひとには見せたくない」 「あたしは、弱くなっちまったのよ。いいの、あなたがこんなこと、興味ないのはわかってるの」  ミミはくすくす笑ってみせようとしたが、失敗した。鼻のわきをつたって涙があふれ落ち、滝の胸にしみた。 「こら、どうしたんだ。いいからおじさんに話してごらんよ」  滝は手に力をこめて云った。ふしぎに、楽しいくつろいだ気分は去らず、それにただ平和な、やすらかな気分が加わっただけだった。この女は、おれを愛しているかな、と彼は思った。 「あたしみじめなのよ」  ミミは涙をせきとめようとする努力をあきらめた。手ばなしで泣いているミミなど、彼は見たのははじめてだった。涙はミミを稚い子供のように見せた。 「淋しいの。あたしは盛りをすぎちまったのよ。はっきりわかったのよ。今日、突然わかったのよ。あたしは、もう三十だし、健二さんと別れてもう一年もたつのに誰もあたしのことを好きになってくれないわ。歌はこれで三──三曲、ヒットしてなくて、こんどのも──こんどのだって全然──ねえあたしもうだめなの? だめなの、もう? 早すぎるわ。早すぎるわそんなの」 「何云ってんだ、ミーコは」  滝は女のからだを膝の上に抱きあげて、赤ん坊をあやすようにゆすりあげ、頬を撫で、涙を口で吸いとってやった。 「ミーコはもう、二、三曲ヒットしないからって忘れられちまうような、そんな歌手じゃないんだぜ。ミーコはうちのプロの看板だ。安定した人気と歌唱力を持つ、ほんものの歌手なんだよ。それから、もうひとつの点について云えば──おれがきみのじゃまになってるのかな」 「いや! 意地悪、知ってるくせに」  ミミは髪をふりやった。 「これまでだってあたしとあなた、ずっとつづいてたわ。切れたりつづいたり、会ったり会わなかったり──だけど一度だって、こんなに長いこと誰にもふりむいて貰えないことなんてなかったわ。石黒チャンやリエどう思ってるかしら。これでもうミミも商品としても女としても落ち目になってきたんだって、きっと思ってる。リ……リエと、前巡業なんかでよく話したのよ。あのコあたしの生き方はあぶないってよく云ったわ。いつか、男の人がふりむいてくれなくなったら、あなた、どうするんですかって──あ……あのコ石黒チャンの奥さんになるんだって。婚約したの。けさきいたのよ」 「それでか」  滝は呟いた。ミミはとがった鼻を彼の胸にこすりつけた。 「あたし──あたし自信あったのよ。すぐに健二さん戻ってくる──このあたしを忘れられるもんかって。で、なくっても、すぐにほかの男と恋をして、大恋愛やって、あの人のこと見かえしてやるわって──だのに、もう一年たったのに……あの人奥さんとこに戻って、いい旦那づらして──久夫ちゃんことし一年生なんだって云うのよ……厄介払いしたみたいに何──なんにも云ってきもしやしない。じゃ一体あたし……あたしあのひとの何だったのよ。なぜあんなにあのひとのために泣いたりわめいたりしたっていうの。三十女なんて──石黒チャンあたしのマネしてて、あたしよりリエの方が女として上だと思ったのよ……」 「ばか云え、ミーコは大スターだ。石黒風情じゃ、おそれおおくって手が出せないんだ。ファン・レター読めよ。ミーコ、いつもおれが、きみが自信をなくしかけると処方してやったろう。ファン・レターを読んでみろよ」 「でもそれを書いた連中だってみんな自分の女房にはあんな浮気女は困ると思ってるのよ。一度でいいから抱きたいの、下着を売って下さいの、あなたは素晴らしいだろうと思いますのって──あたしは何だっていうの。ダッチワイフみたいなもんじゃないの。誰も、あたしのことなんか真剣に考えてくれやしない、娼婦みたいに扱うんだわ。そりゃそうよね、娼婦なんだもの。それが、あたしの選んだ生き方だったんだもの当り前よね。でも──」 「そりゃ、話がちがうと思うがね。おれの覚えてるかぎりじゃ、何人にプロポーズされても情容赦もなくけとばしたのはミーコの方だぜ。どんなすてきな男でも、結婚しようとひとこと云い出したとたんに、手垢がついて、たまらなくいやになっちまうんだと云ってたじゃないか。おれの覚えてるだけだって、少なくとも十人はミーコにふられている」 「あたし──あたしいまになってはじめて気がついたのよ。あたしは、そうやって、自由に生きてるつもりだったの。結婚しておさまりかえる女は大っ嫌いだったのよ。そんな女の知りようもないくらい、ひろい世界を見て、たくさんの人を知って、豊かな生き方をしてる、そう思ってた。健二さんのことだって、ああなるのはわかっててあたしから口説いたんだわ。あんな臆病者にそんな勇気あるもんですか──あたし奥さんを昔知ってたの。きれいで知性があって、最高の女性だったのよ。あの奥さんが結局ただの奥さんにおさまって、あんな男に子供生んで尽しておわるなんてたまらなかったわ。あの女《ひと》がいなけりゃ、健二さんなんてはなもひっかけやしなかったわ。あたしは、こんなことまちがってる──そう思ったのよ。だのに、あのひとは──」  ミミは深く傷ついた苦々しさをこめて吐きすてた。 「結局、あたしのことなんか、男たちは、都合のいい淫売だとしか思ってなかったのよ。金も払わなくていい、結婚とも云い出さない、こんな都合のいい女はない──そう思ってたのよ」 「それはきみの考えすぎだ」  滝はミミの背をゆっくり撫ではじめた。 「そう思ってたら、なぜ十人以上の男がきみに結婚を申しこんだりする? きみは素晴らしい女だよ。聡明で、女のいやらしさってものがまったくない」 「そしていつでも男が実際に自分のために選ぶ女ってのは、いちばんばかでいちばんいやらしい女らしい女なんでしょう。わかってるのよ」  ミミは涙をすすりあげた。 「あたし情けないわ。いちばんこんなとこ見せたくないあなたにこんなとこ見せて──あなた、呆れているでしょうね。なんだかんだ、偉そうな顔して、やっぱり結婚したくなったんだ、結局ただの女じゃないかって──でもそうじゃないのよ。あたし結婚なんて何とも思わないわ。ただ……ただ女をそういうふうに見るこの社会ってものが情けないんだわ。あたりまえのカミサンでなけりゃかたわか売女だ──それが男の頭なのよ。健ちゃんなんか愛してるもんか──一度だって、あいつがほんとうはどんな哀れっぽい、情けないぐだぐだした奴か忘れたことなかったわ。だけど、きっとそれだからあたしははなれられなかったのね。あの女々しい男──女に口説かれて、噂のプレイガールに惚れられたなんて自慢にしやがってさ。ちゃんと知ってるわ──あいつあたしのセックスのことやなんか、みんなにしゃべって肴にしてたのよ。そういう男だったんだわ。知ってるのよ──あいつはあたしを、馴染の淫売みたいに扱ったわ。ああ、いや! どうして男ってみんなそうなの。女ってみんなそうなの! くずばっかり。もう何もかもうんざりよ。芸能界なんて、人間のいるとこじゃない。それを選んだのはあたしよ。わかってるわ、あたしはそれを、決して嫌いじゃなかったし、そこを勝ち抜いていってやろうって気持もあるわ。あたしの中には、男がいるのよ。きっと、あしたになればこんなこと笑いとばせるわ。健坊が何だい。女は三十からが盛りなんだ──ファン・レターも読むわ。これまでだって、何度だってそうやってきたのよ。ただ──そうよ、ただ、いまだけこうしてわめきちらしてやりたいの。あなたはきいてさえくれればいいのよ。あなたはあたしを見つけたひとよ。あたしを作ったのはあなただものね。あたしは、あなたに、どんなところ見られても恥だとは思わないわ。あなたはいつもあたしをクールで知的な女って云ってくれる。でもあなたはほんとうのあたしはこんなばかなヒステリー女だってことも知ってるわよ。ね」 「知ってるさ。きみが可愛い、ほんとうにいい女《ひと》だってことは」  滝は低く笑った。酔いはさめていたが、依然として、かつて知らぬやすらかでうっとりした安息の心持はつづいていた。彼はミミを抱き寄せ、力をこめて抱きしめてから、両手で顔を囲んであげさせた。 「どっちもほんとうのミミなんだ。おれはどのミミも好きだよ──おれの悩みを、やさしく受けとめてくれるただひとりの女のきみも、おれの胸で焦れる駄々っ子みたいなきみもね。きみとおれはよく似てる。ただきいて貰えさえすればいいんだ。一刻そっと受けとめてもらうのはおれたちの贅沢さ。ほんとうは、ひとりで耐えていかなきゃならんことはわかってる。そうできる。それがそのへんのばかなうるさい奴らとちがうところだ。だが、できるけれども、お互いという贅沢が許されるからにはそうしたい。おれときみはほんとの友達だね。男どうしでもそうはないような、親友どうしだ。だが、それだけでもない。ミーコはすてきだ。きょうのきみは、すごく魅力的だ」 「何云ってんのよ。そんなこと、云って貰いたかったんじゃ、ないわ」  ミミは泣き笑いのような顔をした。 「親友ならわかるはずよ。甘やかして、あめをしゃぶらされたかったんじゃないわ」 「それはわかってるさ」 「ただ──ちょっと、つづきすぎただけなのよ。新曲がうまくいかなくて、健ちゃんと久しぶりで局で会っちまって、石黒チャンとリエのことをきいて、あたしは三十なんだって考えて──そこへあなただもの。あなたが来たりしなけりゃ、あたし、誰にもこんな顔見せなかったわ。あしたの朝にはもうさっぱりして笑ってたはずよ。涙って、自分にしか見せないもんだと思ってたわ。だめねやっぱり、あなたって、あたしには贅沢品なんだ。あたしのハードな心がゆるんじまうわ。いつも傷つけあってるくずどもの中でピンとしてなきゃ、ダメなんだわ、あたしは。ヒットさえ出れば──いい仕事ができればとそう思いつづけてさ──そうしたのは、あなたよ。あたしって、あなたの作ったものなのよ」 「おれの作品の中での最高傑作だよ」 「嘘つき、ジョニーに何もかも捧げちまったくせに」 「あいつは、別だ」 「あなたは、いい人ね」 「悪党だよ」 「あたしは淫売よ──くずばかりの、どぶ泥の中では、これでも、ましな方よ」 「自分のことを淫売だなどと云うのはよせよ。きみは、そんなもんじゃない。きみが望むなら、檜山健二のろくでなし、ひとつふたつぶん殴ってやってもいいぜ。おれはいささかパンチには自信と実績がある」 「わるいひとじゃないのよ、気が弱いだけなの」  あわててミミは云い、滝と目があったと思うと、急にぷっとふきだしてしまった。二人はしばらく、妙に満ち足りた快さの中で、くすくすと笑いつづけた。 「ああ、やっぱり、だめね」  ミミは涙をふいた。何かつきものの落ちた表情になっている。 「ほんとに、あなたは、あたしにとってかけがえのない人だわ。あなたみたいに、あたしにぴったり合ってる人知らないわ。ねえ、衝撃の告白をしましょうか」 「しろよ」 「あたし、あなたを愛してる──みたいだわ」  またミミは滝の目をのぞいて笑ったが、こんどの笑いは短かかった。滝はミミの手を両手にはさんだ。 「衝撃の告白はおれにもあるんだ」 「おれは良を愛してる──なんていやあよ。もうわかってるし、第一ちっとも驚きゃしないわ」 「ちがう、ミーコ」  滝は困惑したように微笑した。その微笑は、ふいにこのしぶとい男を少年のように見せた。 「おれと、結婚しないか」  ミミは一瞬目を瞠った。ついで、弱々しくくすくす笑いはじめた。 「からかわないでよ」 「からかっていないよ。いつか云ってたじゃないか。おれときみ、最高の相棒だぜ」 「三十女が結婚したくてがっついてるなんて思わないで欲しいわね。そんなこと云うんだったら、あんな話するんじゃなかった」 「おい、おれは、頼むから結婚して下さいとはいつくばって懇願しているんだぜ」 「前代未聞ね」  そう云いかけて、ふいにミミはことばをきった。滝の笑っている目か、声の調子か、態度の中に、何かを感じたのだ。 「本気?」  彼女は首をかしげてきいた。滝はその手を口に持っていって接吻した。 「本気でなくてこんな台詞は云えないよ。おれが三十七、きみが三十、まさしくベスト・カップルだ。これを外したら、おそらくおれは一生誰にもかみさんになっちゃもらえまい。これまで誰かにこう云ったこともない。身を固めようなんて柄じゃないが、きみとならうまくいくのがわかる。おれはきみ以外の嫁さんは欲しくないよ」 「そんなこと、いっぺんだってこれまで云いやしなかったわ」  ミミの声は変ってきていた。かすかに震えを帯びて、小娘のようだった。滝は手を握りしめる指に力をこめた。 「おれもいろいろ変ったよ。考えも、感じ方もな。まあ、大筋のところは変えようがないがね。またそれが変ったら、きみにこんなことを云おうとは思わなかったはずだ。おれはきみを作った男だぜ。きみの値打がいちばんわかっているのはおれだ。きみがつまらんことで自分の値打を忘れるのなど見たくない。もう、二度と檜山みたいなつまらん野郎にきみを渡すことにも耐えられない。そのためには、これまで長々と切れたりつづいたり、くっついちゃはなれ、はなれちゃ戻りしてつづいてきた仲だが、こいつをひとつ女房にしちまえばもうやきもきさせられることもない、そうはじめて気がついたんだ。もちろん、おれときみはいままでどおりのおれときみだよ。きみは自由に恋愛して仕事していいさ。おれの翼の下でだな──きみだってつまらん女みたいにおれを縛りゃするまい。きみとおれは、ぴったりとうまくいくよ。おれたちは互いにまったく合っているんだよ」 「良──良ちゃんがいるわ」  ミミはかぼそい声で云った。滝は笑った。 「といって、おれがあいつと結婚するってわけにはいくまい。まったくおかしな話だ、おれとミーコには、恋以外のあらゆるものがある、しあわせにやっていくためのね。こう云ったからって誤解せんだろうな、おれはきみが大好きだし、かけがえのないひとだと思ってる、たぶん愛してもいると思うよ。特にさっきのきみを見てからね──ところで良とおれは、逆に、恋だけがあって、他の何もない。セックスもない、未来も、幸福も、互いをしあわせにする信頼も何ひとつない。セックスのことか? いや、おれは道徳派ぶってるんじゃないんだ。おれは、あいつを──抱くたびに、死ぬほど苦しめなくちゃならないのさ。つづけてたら、さいごにはほんとうに病気になって死んじまうだろう。そうまでして、あの細い餓鬼をいたぶるほど、おれも悪魔じゃない。おれは、こんなことを、これまでに知らなかったよ、反対に、おれはセックスだけで恋など無縁なほうへとずっとむかってきたからな。でも──何も、あれと結婚するわけにいかんからきみが欲しいなんて云うんじゃない。ただ、そのときが来たんだと、おれには、なんとなく思えただけだ。きっと、良はそのことと関係があるよ。つまり──ようやく、良は、ひとり歩きをはじめたってことかもしれん。このところ、おれと良はずっと安定してきたよ、互いにな。はじめはばかみたいに傷つけあって、なんとか相手を自分の支配下におこう、いやさせまいと戦いあってた。ほとんど憎みあってると思ってたし、互いに相手を自分の何だと云っていいのかわからんでいた。恋人なんてものじゃなかったよ。あれは戦いだった──いまは、もう戦争はおしまいなんだ。あいつはおれになついてくれたし、おれはあいつの保護者なんだと自覚してきて、しょっちゅうガミガミいう。まあ、おやじと息子みたいな気持になってきたんだな。実際にそうだと云っても、おかしかない年だろう。──おれが欲しかったのは、あいつの信頼と心だったんだな。もういまは少しも、あいつを抱きたいとも思わないし、少しも傷つけあってはいないよ。そしていまになって、おれは気がついたわけさ、おれにはきみがいるんだってね」 「それが──信じられたらね」  ミミは吐息をついたが、もう暗い顔でも、とまどってもいなかった。 「あたしはあなたの作品だけど、ひとつだけあなたより偉いところがあるわ。あたしは、恋愛のプロよ。大恋愛、小恋愛、あらゆる恋を経験したつもりだわ。それに対して、あなたに、いったい何の経験があったっていうの。あなたは、良ちゃんに会って生まれてはじめてひとに恋したんだわ。あたしにはもうわかってるの、恋がバラ色だなんて嘘よ。恋くらい、人を不幸にするものはないわ。恋ってそんなにかんたんに終戦になっちまうもんじゃないわ。──でも、もしかしたらそうなのかもしれない……そう信じたいわ。ねえ、これだけは云っておくけれど、あたしがプロポーズされて嬉しいと思ったのは、あなたがはじめてよ。たとえ誰かを愛してるあなたでも──それとも、だから、かな?」 「じゃあ……」 「でも、待ってよ。急すぎるわ。あたし──まだ何も感じられないの。少し考えていい? あなた、気持が変りゃしない?」 「ばか云え。このおれが、こんなことを、そうころころと変えるかい」 「信じるわ」  ミミははにかんだような笑いをうかべて、滝の肩に頭をこすりつけた。 「少し、考えさせてね。なんだか──ひとりになったとたんに、自分の気持がわかるんじゃないかと思うけど──あたし、これまで、きっとあたしは結婚なんて一生関係ない女だろうって決めていたんですもの。それに、いやよ、ぬかみそくさいなんて。──でもあなただったら──歌手をやめろとも云わないし、これまでどおりで、ただ公然になるだけね。そうね──それは、いちばんいいことかもしれないのね」 「いちばん、いいことさ。おれときみは親友だ」 「男の人って、でも、結婚すると変るそうよ」 「おれは変らん。変りようがない」 「そうかしら──だとしても、あたしが変るかもしれない。あたしたちは決して傷つけあわない──って、前に云ってたわね。でもあなたと結婚すれば、あたしはあなたを愛しちゃうし、そうすれば、傷つけあわずには済まないのよ」 「そんなことはかまわない。おれたち二人なら乗りきれるさ。きみにも、もう、これがいちばんいいことなんだってわかっちゃいるんだよ。きみはただ手続きのためにぶつぶつ云ってるだけなんだ」 「ひどいひとね」  ミミは泣き笑いのように顔をゆがめて、滝の頬を撫でた。 「何でもわかってるんだから。──でも、そうかもしれない。いつも、あなたはわかってたわね。何でも、いちばんいいようにしてくれたし、あなたの云うとおりにしてさえいれば、何でもうまく行ったわ。ねえ」 「ああ?」 「考えてみると、長い付合いなのね、あたしたち」 「ああ、長い付合いだ」 「一度も喧嘩しないで、いつも仲のいい、気の合ったどうしで」 「ああ」 「あなたって、すてきな男《ひと》よ、わかってる?──ちょっと待って。ほんの少しでいいのよ。良ちゃんのこととか……少しだけ、考えることがあるから」 「いくらでも、考えていいよ、急がなきゃならんわけじゃないんだからね──奥さん」  滝は笑い、ミミをひき寄せて強く唇を吸った。良は、何と云うだろう、と彼は考えていた。 [#改ページ]     16  良が身じまいをととのえて、「みゆき御殿」の玄関に出てきたとき、時刻はもう一時をすぎていた。清はむっつりと待っていた。十一時までにはマンションへ帰らせろと滝にきつく云われていたのである。清の唇の厚い無表情な顔は、取り立てた感情を示してはいなかったが、良はさすがにうしろめたく、玄関わきの小部屋でじっと待っていたらしい若い付人の顔をそっと上目づかいで見た。 「車をまわして来るから」  清はぶっきらぼうに云い、急いで広大な邸の右手のガレージの方へ出て行った。良を送りに出た、ガウンをひっかけただけのみゆきと、ズボンの上に急いでワイシャツだけ羽織った佐伯が、その鈍重そうなずんぐりしたうしろ姿を見送った。 「良ちゃん怒られやしない」 「かまうもんか」  良はちらりと笑った。 「あんなやつ──滝さんは怒りゃしないよ、自分だってきっと三次会、四次会って付合ってるんだから。まだ帰ってないかもしれない」 「うるさいんだね、あのマネ」  佐伯が肩をすくめて云い、三人はまだ昂ぶりの名残が体内をたゆたうままに、もつれあうようにして玄関さきへ出た。冷たい夜気がかれらの火照ったみだらなからだをつつむ。一時をすぎている住宅地は、かなりさきに無灯火の自動車が一台駐めはなしになっているだけで、猫の子一匹見えなかった。三人だけの淫靡な秘密の思いが、かれらを酩酊にさそっていた。 「あのあんちゃんが車まわしてくる前に」  佐伯が云い、良の頭をひき寄せた。 「お休みのキスだ」 「やめてよ、こんなとこで──」 「誰も見てやしないよ、坊や」  佐伯の舌が良の唇を割った。みゆきがみだらな忍び笑いを洩らす。佐伯は、まだ先刻の痺れが残っている良が息をきらしてぐったりと佐伯の腕にもたれかかるまで、良をはなそうとしなかった。良が低い喘ぐ声を洩らした。 「すてきだよ、きみはすてきだ」  佐伯は淫らな意味があいてに伝わるような調子で云った。 「さあ、ママの番」 「いやな人ね、あたしの良ちゃんを苛めないで」  みゆきはくっくっとおしひそめた笑い声を立て、良に近づく。たったいま、佐伯に吸われた唇に、みゆきの唇がおおいかぶさった。立ったまま、接吻しているふたりのうしろから、佐伯が腕をまわしてふたりもろとも抱きしめたが、 「手が届かない」  笑って云うと、うしろから曲げた指さきでみゆきの乳房を押さえた。みゆきが電流にふれたように身をよじる。 「誰か──見るよ」  良は喘いだ。みゆきは、はなした唇をそのなめらかな頬に這わせて、妖しく笑った。 「ここは門からは死角になっているのよ。大丈夫よ、うぶねえ、良ちゃんは」 「また来るんだよ」  佐伯が指に力をこめながら云ったが、清の車がまわってきたので三人はさっとはなれ、そしらぬ顔で、みゆきはしきりにガウンの衿を合わせ、佐伯は髪を指でととのえながら立っていた。 「また遊びにおいでよ」 「電話するからね」  ふたりが云う。良は車に乗った。佐伯が、運転席の窓を叩いてあけさせ、清に笑いかけた。 「おそくなっちまったが──良ちゃんが叱られないように、うまく云ってやってくれよ。ちょっと迎えに行くのがおそくなったんだとかさ──ね、頼むよ……待たしてわるかったね」  佐伯は清のがっしりした手をつかみ、驚いて鼻白む彼の掌にすばやく折りたたんだ札を握らせた。 「いけません」  清はぼそりと云った。 「いただくいわれがありません」 「固いこといわないでさあ。ほんの気持──ねえ、きみ、松村くんだっけ、きみだってジョニー可愛いだろ。いろいろと、|ため《ヽヽ》になってやってくれよ。そしたら、おれたちだって、わるいようにゃ、しないからさ。ね」  佐伯はかたくなに押しかえそうとするのを見ていそいでうしろにさがったので、車から下りもならず、清は困惑したように手の中の金を持ちあつかっていた。佐伯は行けと手をふった。 「お休み、ジョニー」 「気をつけてね、良ちゃん」 「お休みなさい、先生、佐伯さん」  清が車を出す。それが門を出てゆくのを見送って、たちまち佐伯の手がみゆきの胴をとらえ、胸をさぐった。みゆきは声を殺して笑う。ふたりはもつれあって玄関を入ろうとしたが、ふいにみゆきが眉を寄せて、佐伯の手を押さえた。 「真ちゃん」 「なに」 「いま、そこ──何か音がしなかった?」 「さあ、きこえなかったけど」 「なんだかガサッて云ったわよ」 「猫かなんかだろ。ああ、眠い」  佐伯は欠伸をした。 「さすがのおれも、いっぺんにふたりは消耗するなあ」 「いやな真ちゃん」 「いくらママでも、もう今夜は……」  ふたりはみだらな笑い声を立てた。そのまま中に入って、鍵をかける。少しして、どこかで車の走り出す音がきこえたが、むろんみゆきも佐伯も気にもとめず、執拗な三つどもえの愛撫の疲れですぐにぐっすりと眠りこんでしまっていた。  車は夜の通りを走っていた。行きかう車もなく、ばかにひろく見える道路を、清は黙りこんだまま、やけのようにスピードをあげて車を走らせていた。良は眠そうに、後ろの座席にぐったりとかけて、これもひとことも云わない。別に清の不機嫌を感じとってではなく、清など問題にしていないからなのだった。付人など、人間ではない、ぐらいに考えている良である。  目をつぶり、眠りこむとみえてまたはっと目を開いて外を見ている良の、妙に稚く見える表情を、清はバック・ミラーでときどき光る目で見つめていたが、車が「みゆき御殿」をあとにして十五分も走ったかというころ、ふいに、無口な彼としてはめったにないような、きびしいはっきりした口調で非難した。 「あなた達は、わるい人たちだ。あなたは、わるい子だよ、ジョニー」  良は驚いて目を開き、清のむっつりとまっすぐに立てた、太い首と、短くかりこんだ後頭部のこわそうな毛を見つめた。が、清はそれきり何も云わなかった。良は白く目を光らせて、冷やかに清のうしろ姿をにらみつけた。 「そんなことあんたに関係ないじゃないか」  清は黙っている。良はばかにされたように思ってかっとなった。 「云いつける気なんだろ、卑怯だ」 「そんなことしやしない。おれはあんたたちみたいな人間とちがう。ご心配なく」  清はむっつり答えた。良は唇をつき出した。 「誰が、心配なんかするもんか。云いつけるならやってみろ、滝さんはぼくが頼めば、あんたなんかすぐ首にしてくれるんだ」  むかむかして、良は云いつのった。 「田舎からのそのそ出てきて、何やってもものにならなかったからって、やっかむことないじゃないか。はじめっから、東北にいればいいんだ、出て来なくたっていいんだよ。どっちみち、東京なんて人間余ってんだからな」  清は頭も動かさず、何ひとつ云わなかった。清は歌手志望で職場を転々とする中卒の若者という、おさだまりのコースをたどっていまの仕事にありついたのである。流行歌手の付人という、ファンなら垂涎の的の職場は、しかし単なる走り使いの下ばたらきで、そこでコネを作っていずれは自分が付人を使う身になどという夢を持ちつづけられるところではなかった。まして清はそろそろ二十五をすぎようとしている。ふつうのスカウトでも、最近では二十すぎのデビューは年をとりすぎているからと二の足を踏む風潮である。  清は何も云わなかった。良は、少しぶきみになってきて、これも黙りこんでしまった。重苦しい空気に窒息しそうになりながら、二人は意地くらべのように黙りつづけていたので、車がマンションについたときどちらも心底ほっとした。  良は清のあけてくれるドアからとびおりて、清を尻目にかけてエレベーターを上った。清は車をガレージにいれに行った。 (あんな奴──生意気だ、頼んでとっかえて貰ってやる。ぼくだって少しぐらい自由にさしてくれたっていいじゃないか。まったくたまりゃしない)  良のなかに、先刻までの淫靡な記憶はたちまち霧消して、むやみな腹立たしさだけがつのってくる。良はむかっ腹を立てながら、ノブをまわし、鍵のかかっている手ごたえに少し機嫌が直った。 (滝さんまだなのかな──よかった、怒られないや)  ドアの上の鍵を手さぐりしていたとき、ふいに、はっとして良はふりむいた。トランクにいれてある衣装やなにかを清が持ってきたのかと思ったが、そのわりには、エレベーターの音がしない。ふりむいた良の目が大きくなった。山下が立っていたのだ。 「な──何よ、先生。こんなにおそく……ああ、びっくりした」  瞬間的にむっとして怒った声を出してから、良は、今夜山下との約束をすっぽかしていたことを思い出した。 (畜生、待ち伏せしてたのか)  山下はひきつった顔をして、すぐにはことばも出ないようなありさまだった。怒ってんだな、と良は思い、どうごまかすか、甘えてみせようか、それともどうせ山下を追い払ってよいと滝に云われているのだから、ここでいっそ最後通牒をつきつけてしまおうか、ととっさの判断に迷った。  しかし結局なりゆきを見てやろうと決め、にっこりするでもなく、怒っているでもないあいまいな表情を作って上目づかいに山下を見上げた。山下は良をにらむように見ていたが、ふしぎと、激怒しているというようにも見えなかった。ただ、とことん参ってしまったような顔をしていた。良の、あいての出ようしだいで態度を決めようとしている、ふてぶてしい顔を山下はじっと見つめていたが、ふいに喘ぐような声で良を呼び、近づいてきた。 「どうしたの──こんなところで」 「良……何も云うなよ」  山下は手をのばし、良の肩をつかもうとしたが、そのままその指が良の細い首をとらえた。良の顔から血の気がひいた。山下の手は痙攣するように震えていた。彼はかすれた声を出した。 「何も云うなよ──何かひとことでも……いつものごまかしや嘘や手管を使ったら──おれは、お前を殺すからな」 「何するんだ、はなしてよ」  良は咽喉をつかまれて喘ぎ、激しく手をもぎはなそうとした。いまにもその強い指がぐっと力をこめて咽喉を握りつぶしにかかるような、けもののような恐怖がつきあげてきた。その反動で良は激怒して叫んだ。 「やめてよ。指をはなせよ。そういうこと、死ぬほど嫌いだって云ったじゃないか。殺すの、殺さないのって──そんなの大っ嫌いだ。いやだよ!」 「怖いのか」  山下は相変らず、まるで彼のようでない声を出した。良は腹が立ったが認めざるをえなかった。良は山下をばかにしきっていたが、今夜の山下は何かまるきりようすがちがっていた。山下を知ってからはじめて、良は山下に恐怖を感じ、それをこらえきれないでいた。 「そうだろうな──きみは、力なら、おれにだってまるでかなわない。この細っこい首なんか、おれだってこうして折っちまえるんだからな──恐いか、良」  山下は指にゆっくり力をこめた。良は喘ぎ、もういちど男の指をひきはがそうと、ドアに押しつけられたままむなしくもがいたが、まだ声は立てないでいた。 「何も云うなよ」  山下は再びしゃがれた声で云った。 「何も──おれを人殺しにするようなことを云うなよ。おれは本気だ。おれは──もうお前の云うことなんか、ひとことだって信じないからな。おれは──おれは……知ってるんだ。何もかも見ちまった。おれは──お前にすっぽかされてすぐ、行先がピンと来たんだ。おれは──『みゆき御殿』の前に隠れてたんだ」  良が鋭い声をあげた。凍りついたような目が山下を見あげていた。山下は怒ってはいなかった。ただ、とことん打ちひしがれて、死ぬほど悲しそうだった。 「何もかも見たんだよ──お前はおれをだましてたんだな。やっとわかった。おれは──死んだ方がましだよ、良、お前が……お前の正体があんなものだったと見せつけられるよりはな──良、……おれと死ぬか。おれと一緒に──もう誰にも、そのわるい、悪魔みたいなからだにふれさせない、誰もだませないところへ行こうか……良……」  山下の指がゆっくりと力がこもってくる。良は一切の抵抗をやめて、激しく震えながら、狂ったように頭をめぐらしていた。助けを求めるのも、術策を弄するのも、致命的だった。山下は本気なのだ。その、怒っていない、魂をえぐるような悲哀に閉ざされた目の中に、良はそれを知った。良は死にたくなかった。山下の指が咽喉に食いこんでくる。  自然に、良の目から涙があふれ出した。良はいたいたしい表情で山下を見あげながらその涙をまばたきして頬につたわらせた。ふいに、山下の手が、震え、ゆるんだ。良は抵抗せずにいた。山下の目がみるみる濡れてきた。 「良……」  彼は指をほどき、良の肩をつかみ、力尽きたようにうなだれてその肩に頭を押しあてた。良はその山下の胸に身を投げこんで、しがみついた。 「良──なぜお前は……」  山下のかきたてたわずかな炎は、どちらをも灼かぬままに、むなしく消えてしまっていた。良の涙が、山下を嘘のようにもろくしてしまった。 (きみはきれいすぎる……)  山下はがっくりと、くずれかかるからだを支えるように良を抱きすくめながら呻いた。 「どうしてきみのような子があんな──良、どうしてなんだ。きみは顔だけきれいなほんとうの悪魔なのか……」 「先生、勘忍して」  良はかすれ声で囁いた。良の頬にすりつけられた、山下のざらざらした頬は、良と山下の涙が混りあって濡れていた。 「ぼ──ぼくは……」 「そうじゃないな。そうじゃないと云ってくれ。きみはいい子なんだと云ってくれ。あいつがわるいんだ──そうだろう、あのうす汚い雌豚と淫売野郎がきみをわるくするんだ。良──そうなんだろう?」 「先生、お願い、中へ入ろうよ。中で話をしよう。ぼくにも云わせて、頼むから。もう嘘なんかつかないよ。ね、また嘘ついたら──ぼくを、殺してもいいから」  良は山下の手を押しのけて、咽喉に手をあて、よろめいた。手さぐりして鍵をさがし、ドアをあける。山下は打ちのめされたようすで、黙って良のあとについて室内に入った。良は流しによって水を飲み、激しくむせた。 「良──」 「大丈夫」  室の電灯をつけ、もう少し水を飲んで、なんとか落着こうとしながら、良はこれからどう態度を決めようかと考えていた。山下はどうやら落着いたように見える。さっき滝が来てくれたらよかったのだと良は思った。そうしたら、その場で縁切りができた。良にとって山下という男の値打ちは自分の思いどおりに動いてくれる、都合のいい奴隷だからというにすぎない。このところ、急に自己を主張して、うるさく嫉妬したり、あげくは暴力をふるいはじめるようになった山下は、良には心の深いところですでに完膚なきまでに憎まれ、見すてられていたのだ。  もう沢山だ、と良は思った。しかし、暴力はいやだった。良は滝以外の人間に力ずくで扱われることが、たまらなくいやだった。滝は良のために何もかも賭けている。どんなときにも自分を思っていると良は確信している。滝の暴力は、ある意味では正当なのだ。  だが、そうでない、何の犠牲も払わぬくせに力ずくでひとを支配し手に入れようとかかってくるやりかたは我慢ができない。  良の内には、生命ごと捧げるつもりでなくては決して飼い馴らすことのできない、野性の高貴な獣がいる。熾烈な反撥と拒否が、嘘と投げやりで満たされた我儘な小悪魔のもうひとつ内側を埋めている。良は、自分が山下に強いた犠牲、さまざまな贈物や心づかいや尽力のことなど忘れていた。それとも勘定に入れていなかった。  ゆっくりと睫毛をあげ、むき直って山下を見つめた煙るような瞳は、すでに山下の運命を決めていた。山下は力尽きたように皮のソファにすわりこみ、両手で頭をおおってうつむいていた。悲哀に満ちた憤怒が去ったあとでは、ただ惑溺し魂をとられたものの悲しみだけが、いつもの彼に戻った山下の心を浸しているように、急に老けて、しおたれて見えた。 「先生──コーヒーでも、いれようか」  良はやさしい声を出した。 「落着いてよ。落着いて、話をしてよ」 「わかってる。落着いてるよ──コーヒーは、いいよ、良、ここへおいで」  山下はゆっくりと手をほどいた。良は行かなかった。山下が顔をあげて、膝の上を示した。良はためらうようすを見せて、動かなかった。 「済まなかった。もう──何もしないから……」 「もう少し待ってね。ぼく──」  良は、ひどく怯やかされたのだという意味が相手に伝わるように、睫毛を伏せ、すさるようにしてむかいあった椅子に腰をおろした。 「先生があんなことするなんて──」 「許してくれ。おれは──気が変になってた」 「ぼくは、悲しいよ。先生だけはちがうと思ってた」 「良──苛めないでくれ」  もういつものペースですすめて平気だ、と良は思った。同時に、たくみに非難される側からする側へすりかえてしまった、自分の手腕に満足していた。  あとは、少し弁解して──最大限の注意を払わねばならないが──それから甘えたり、接吻したりすればまったくもとの関係に戻るだろうと考えた。少しはあとをひくかもしれないが──だが、と良は思った。もうたくさんだ。こんなことをくりかえすのはうんざりだ。 (もう、山下なんか、厄介払いだ)  何ひとつ抑制というものがなく、それでいてこちらの事情にはちゃんと心を配ってくれる、佐伯と、みゆきとの関係に、いまの良は気をひかれていた。かれらのあいだでは、嫉妬も苛めあいもゲームにすぎない。ここでどちらを選ぶかは自分の気持しだいだ、と良は思った。そしてその気持は、もうかなり前からすでに決まっていたのだ。 「良──」  山下は良の手をとろうとした。良はなにげなく手をひっこめた。山下はうなだれた。 「怒ってるのか」 「怒ってない。でも──もし、先生が、まだあんなことする気なら、もう何も話したくないよ、今夜は。もうしないって、約束してくれるなら、話、しようよ」 「もう、しないさ、誓うよ、良」 「ぼくだって──先生にこの部屋ん中に入って貰ったのは、先生のこと信じてるからだよ。それは、わかるでしょう」 「わかる」 「落着いて、話をしてくれる」 「ああ──きみも、もう嘘はつかないね」 「つかない。──でもほんとうは、いつだってぼく嘘をつきたくってつくわけじゃないんだよ」 「──そう思いたいよ」 「まわりが、そうしむけるんだ。ほんとう云うとね、きのう白井先生のうちに来いって誘われてたの、二週間も前からなの。すっかり忘れてて、先生と約束しちゃってから行くまぎわに思い出したんだよ。──でもいまになって断ったら先生がっかりすると思ったし──それに、先生にはぼく安心して我儘いえるけど、白井先生は、機嫌わるくするとすごいんだもの」 「それはいいさ」  山下は自制していた。 「そんなことはいいさ──それじゃ、三人で寝たのも、機嫌をわるくされると困るからなのか?」 「いやな云いかたしないでよ」  良は少しずつ安心しはじめていた。どうやら、山下の口調が、いつもの痴話喧嘩ぐらいにまで、おさまってきたからだ。 「あれは──あんなのぼくだまされたんだ。あんなことだってぼく知ってたら行きやしないよ。大体佐伯さんなんているなんてきいてなかったもの。酒に何か入れたんだよきっと。いきなり佐伯さんが入ってきて──ぼくそんな人間じゃない。あんなこと、嫌いだ、もう二度と行きたくない」 「それが、信じられたらなあ」  山下は呻くように云った。 「あいつらがきみをわるくするんだ。それはわかってる──きみはまだ十八じゃないか。あいつらは──白井みゆきなんか、百人も男をとっかえひっかえしてる色気狂いだし、佐伯真一なんて、そのまた色気狂いにたかって甘い汁を吸っているシラミ野郎だ。城戸洋典にバーテンしてるところを口説かれて、やつの穴《けつ》を掘って売り出して貰った淫売野郎だ。あんな奴ら──」 「ぼくもだよ、先生、ぼくだって同じさ」  ふいに良は怒りがこみあげてきてそっけなく云った。云った良の方が驚いたが、何か激しいものがつきあげてきて、口が勝手に動いた。 「ぼくだってただの淫売の小僧の同類だよ。それは知ってるはずだ。ぼくに曲を書いてくれたとき、おれのうちに遊びに来いよって云ったのは先生だよ。ぼ──ぼくは長いこと、忘れてたけど、あのとき、最初のとき、びっくりして逃げ出したぼくを見つけて連れ戻した滝さんは、ぼくに云ったよ。きさまは淫売なんだ、作曲家の先生が気に入ったと云うなら云われたとおりにしろ、売り出すためにおれがお前を誰かに売ったらそいつと寝ろって──それからぼくは大賞とって、スターになって、べつにいまは誰に売られなくたって、レコードも売れるし賞も貰える、何にもこわいものはなくなった。だからって──ぼくが淫売だったことなんか、一度もないみたいに云わないで欲しいな。白井先生や佐伯さんと、ぼくといったいどれだけちがうの。いや、ぼくの方がわるいさ、年の分だけ──先生は、ぼくのことを、勝手に想像してるんだ。ぼくは、いい子なんかじゃない、天使のような汚れなき少年なんかじゃないよ。先生だってはじめにぼくを試してやろうと思ったとき、そんなこと、夢にも思わなかったはずだ」 「良──」  山下は喘いだ。 「きみは、それをまだ云うのか。きみは、はじめがそうだったからって、おれがどれだけ尽しても、きみを愛してても、許してくれないのか。きみは──」 「先生は嘘をつくなって云ったね。だから、もうぼくは嘘をつくのをやめたんだ。ぼくはぼくだ。ぼくだって、嘘つきのワルなんかじゃないさ。ぼくをそうさせるのは先生や、ぼくのまわりの人だよ。みんな、はじめぼくを安い、とりかえのきく商品みたいに扱って、自由にしようとした。ぼくがたまたまスターになったら、こんどは純白のアイドルだの、天使の横顔だのって、勝手にぼくのことを想像して、がんじがらめにしたんだ、ぼくはやさしい、いい子でもなけりゃ、嘘つきのワルでもないよ。それを、みんなに、やさしいいい子、みんなの期待するとおりの傷つきやすい天使、純粋な少年でいてやるために、ぼくは嘘をつかなけりゃならないようにさせられたんじゃないか。ぼくを知ってたのは滝さんだけだよ。あの人は、いつでもぼくに、我儘な、お調子者の甘ったれめって云って、でも、そのままのぼくを受けとめてくれたんだ。嘘つきはぼくでなく先生だよ。先生は、自分をだましてたんだ。ぼくがスターになるに従って、先生は自分の中のぼくのイメージを、自由にしていい切売りの人肉から、ガラス細工の天使の人形みたいにすりかえて、勝手にそれを愛していたんだよ。いちどだって、先生はぼくをほんとうに見やしなかったじゃないか。そしてぼくがそのイメージに合わせて自分をつくろってても、そんなイメージなんかうんざりだからもとのほんとうの自分でいようとしても、ぼくのことを非難して、嘘つきだ、なんだって云うんじゃないか。そんなの勝手だよ。あげくにぼくを力ずくでどうかしようなんて──それじゃ一体ぼくは何なの。先生こそ、ぼくを自分の好きにしていい淫売だとしか、思ってないんじゃないか」 「良!」 「先生はたしかにぼくによくしてくれて、何でもくれて、ほんとに愛してくれてると思うよ。でも先生は肝心なたったひとつのものを決してくれないじゃないか。つまり、ぼくを一度だって対等の人間として話しかけてくれもしなかった。ぼくを、きれいな人形だと思ってたんだよ。それでいて、ぼくが真面目に先生と話をしないって云うんだ。先生のぼくにする真面目な話って、つまりはもっとおれが満足いくようにしろってだけじゃないか。ぼくが先生ばかにしてるなんて──ばかにしているのは、先生だよ」 「良! きみは、二年ものあいだ、おれのことを、そんなふうにしか思ってなかったのか。きみは──きみは何も云わないでおれに甘えて、そのあいだじゅう、おれなんか、どうせきみを淫売だと思ってるんだから、せいぜいしぼりとってやれと──そんなふうにしか、おれのことを思ってなかったのか」  山下の目が再び光りはじめていた。だが、自分のことばに自分で激した良は、青白い反逆の炎に抱きしめられて、もうさきほどのように恐がっていなかった。 「先生がそうさしたんじゃないか。何か買ってやりさえすれば、それでいいんだと思ってたんでしょう。何かしょっちゅうやっているから、それでぼくに権利がある、ぼくを自由にする権利があると思ってたんだ。先生はいつだって要求ばかりじゃないか。誰と付合うな、誰と口をきくな、滝と住むのをやめろ──それで先生は何をしてくれたの。いろいろくれたって──お金のことなら、ぼくは先生の曲ヒットさして、そのくらいはかるくもうけさしてあげてると思うけどね。何やかや、買ってくれて、遊びに連れてってくれて、ぼくをいいように弄りまわして──それで何をしてくれたの。先生、滝さんはね、滝さんはぼくを作った人だよ。ぼくを売り出して、ぼくを淫売に仕立てた人だ。あの人はぼくを無理やり犯して死ぬような目に合わせたこともあるし、ぼくをいろんな男や女に売りつけたこともある。しょっちゅう、ぼくに腹を立ててひっぱたくし、あの人から好きだの、可愛いのなんて一回だって云われたことない。いつだって帰りがおそい、たるんでる、真面目に歌わなかった、ああだ、こうだって朝から晩まで文句ばっかりだ。だけどね、先生、滝さんはそれをぼくのためにしてくれてるんだ。ぼくを売るのもぼくをスターにするためだ。あのひとは朝も晩もぼくのこと、ぼくだけのことを考えてる。ぼくがきのう朝帰りしてみたら、あのひとは、自分も寝ないで待っててくれたよ。ぼく、いきなりひっぱたかれたけど、何だか嬉しくてたまんなかったよ。滝さんはぼくのためにプロデューサーもやめて、ぼくに何もかも賭けてくれてる。あの人は、本物なんだってぼくは思うよ。あの人だけはぼくを裏切らないよ。ありのままのぼくのことを考えてくれてるよ。あの人がぼくのためなら死ぬって云ったら、ぼくはそれを信じるよ。ほかの誰が、ぼくのためにそうまで賭けてくれるの。先生だってぼくがスターでなかったら、きっと見むきもしなかったはずだ。滝さんはいつだってぼくと一緒だ。ぼくのことだけ考えてる──ぼくだって、いつでも滝さんがすべてうまくやってくれる、いちばんいいようにしてくれるって信じているよ。滝さんが誰かと寝ろって云ったらぼくはそいつと寝る。あの人が笑えって云ったらぼくは笑うよ。あの人だけだよ──ぼくがスターだからでも、ぼくがきれいだからでも、ぼくのためにもうかるからでも、ぼくのからだが欲しいからでもなく、自分の仕事も、名前も、何でもぼくのために賭けてくれた人は。だからぼくは滝さんのもので、滝さんはぼくとしっかり結びついてるんだよ。だのに──先生は、ぼくに一体何をくれたの。一体何を知ってるの。ほんとうのぼくについて」 「そうか……」  山下は咽喉でつぶれた声を押し出した。 「きみは、やっぱり、滝を愛してるんだ。はじめて──きみの口からほんとうのことをきいたな。だからいつだってきみはのらりくらりと何とか云っておれをごまかしちゃ、滝を好きなくせにおれを手玉にとっていたんだ」 「そんなことじゃないんだ。先生には、何もかも、自分のやり方でしか考えられないんだ」  良は叫んだ。 「滝さんとぼくは、好きだの、愛してるのなんていやらしいもんじゃないんだ。そんなありきたりの、寝るか寝ないかなんてんじゃない。先生はなんでもそういうふうに考えるんだね。──ぼくはこのごろ考えていたんだけれど、このごろぼくと先生は、何を云っても、何をしても、わるくなるばっかりだね。相性がわるいのかもしれない──そういう、時期なのかもしれないけど、ぼくたち、しばらく、もう会わない方がお互いのためにいいのかもしれないよ──少し互いに落着いて、気持がやわらぐまで待った方が──」 「愛想づかしってわけだな。もう、用はないから、さっさと退場していただきましょうってわけだ」  山下の目は流しの方にむけられていた。良は眉を寄せて彼の視線を追ったが、そのまま息をつめた。冷たい戦慄がからだを走りぬける。  流しには、柳包丁が出しはなしになっていた。  山下は、苦労して、それから目をもぎはなそうとした。しかし、どうしても食いいるような視線はそれからはなれないのだ。良は生唾を飲みこんだ。全身が冷たいとも、熱いともつかぬ何かの水に浸されたようだった。にぶい光沢をはなつステンレスを、魅せられたふたつの視線が凍りついたように見つめていた。 「愛想づかしってわけだ」  山下は奇妙なひきつったような声で呟いた。悪夢の中で、どうしてもからだが動かない、あの状態が、ふたりをとらえていた。  奇妙に現実感を失ってしまった頭の中で、逃げなくちゃ、と良はぼんやりと考えていた。寝室にとびこめばいいのだ。とびこんで、内からロックすれば、山下は入ってこられない。ドアをこわしたり、合鍵をさがすひまに、良はベランダづたいにとなりへ逃げこんでもいいし、ベッドサイドの電話で一一〇番もできる。  それは、ふたりの人間の関係が、決定的な破綻にひきさかれた一瞬だった。山下の目は依然として呪縛されたように包丁にからみついている。流しに彼がとびつくのと、良が寝室にとびこむのと、どちらが早いか、だけだった。  凍りついた対峙に、最初に耐えきれなくなったのは、良の方だった。良は、はね起きて、もつれる足で、寝室のドアにかけよった。  良の動きが山下に電流を通した。山下は一挙動で包丁をつかんだ。いつもの鈍重な彼と思えない敏捷さだった。山下は良に殺到した。良は内開きのドアをようやくひっぱったところだった。室にとびこもうとする良のうしろから、山下があいた手でノブをつかんで、しめさせまいとしながら、刃物をふりまわした。 「逃さない。お前は、おれと、死ぬんだ」  山下は喘いだ。目が血走って、形相が変っていた。良はドアをしめられぬまま室の奥へ逃げこんだ。良は自ら追いつめられたかたちになった。 「人殺し!」  良はわめいた。枕をつかんで投げつけるのを払いのけて、山下は大股に迫った。 「やめ──やめてえ!」  悲鳴をあげて、山下のふりまわす刃物から身をかばおうとあげた手の、左の掌から手首の内側を、包丁の鋭い刃先がすーっと切りさいた。血の色を見て、山下は逆上した。 「殺してやる! ばいた!」  山下は良の咽喉を左手でつかんだ。右手をうしろにひいて、勢いをつける。すさまじい狂った男の目が火を噴くように良の顔をにらみすえていた。  生まれてはじめて、これでおわりだ、と良は思った。涙があふれ出したが、こんどは山下はほだされなかった。良の目の前が暗くなっていった。  どちらも扉のあく音をきかなかった。気を失いかけた良が、いつまで待っても、おそろしい刃をつきとおされた激痛が来ないのに気づいて、はっと意識を取り戻したとき、良は、床の上に打ち倒された山下と、その手からもぎとった包丁をさげて肩で激しく喘ぎながらその上にのしかかっている清とを見た。清は立ちあがり、奇妙な不可解な表情で山下を見おろした。 「お帰り下さい」  清はにぶい声で云った。 「まにあってよかった──先生は有名な方じゃありませんか。こんなことで、破滅していいんですか。お帰り下さい。このことは、誰にも云いません。滝さんにも云わんことにします。帰って、落着いて考えて下さい」  山下は完全に打ちのめされていた。彼はぼんやりと清を見、ベッドの上ですくみあがっている少年の蒼白な顔を見た。何も云わずに、彼はかろうじて立ちあがり、よろよろと出て行った。扉の閉まる音が、重くひびいた。 「誰にも云いませんよ──お気の毒です」  清は、まだそこに山下がいるかのように呟いた。それから良をふりかえった。 「大丈夫?」 「……ああ……」  良のからだはいまになって、ひっきりなしに震えはじめていた。左手から、鮮血があふれ出て、こぼれ落ちてシャツを汚している。かなり深く切られているのに、なんの痛覚も感じていなかったことにはじめて良は気がつき、とたんに鋭い疼痛を感じて呻いた。だが、それよりも恐怖の方がまさっていた。 「もう──もう戻って……」 「来ないよ。あの人は、たぶん落着けば、ばかなことをしたとわかるだろう」 「そ──それ! しまって、あっちへやって!」  良は清の手の包丁を見て悲鳴をあげた。清はゆっくりと立っていって、それをしまい、薬箱を持ってきた。 「手当しなくちゃ──シャツをぬいだ方がいい」  シャツからジーンズの膝にまで、意外に量の多い血がまだぽたぽたとしたたり落ちていた。良は喘ぎながらシャツをむしりとり、清はそれを受け取って左手を押さえた。あらわになったなめらかなからだから目をそらして、薬箱をあける。夜は、何もきかなかったように、しずまりかえっていた。 「ジョニーがわるいんだよ。わかっただろう、どうしてひとを挑発したり、弄んだりしてちゃいけないのか」 「そんなこといまききたくないよ!」  良は激しく唇をかみしめた。 「どうしてあんたはここに──?」 「衣装とケースを持ってあがってきたら、中で何か云いあいをしてる声がきこえた。わるいから入れないし、荷物をおいてけないから外に立ってたら、そのうち人殺しってきこえてきたから」  清は脱脂綿で、左手で傷の少し上を押さえたまま良の手首からあふれる血をしきりに吸いとりながら重い口調で答えた。 「いたむ?」 「うん。──もっと早く入ってきてくれれば……」 「しかたないよ。──病院へ行った方がいいかもしれないんだが……」 「いやだ病院なんて!」 「わかってるよ。滝マネに知られたくないんだろう」  清は奇妙な口調で云った。 「──全部云わなきゃならないからね」 「そんなの……」  良はまたぐいと唇をかんだ。 「困ったな──血が、とまらない」  清は血を吸った綿を新聞紙の上にあけて、取りかえながら呟いた。 「おれも、なるべくなら──マネに云わん方がいいと思う。山下先生が可哀そうだから」  清はひざまずいて、一心に血を止めようと苦労していた。ちょっとことばがとぎれ、沈黙が室を埋めた。良はぼんやりと、いまの恐ろしい経験のことを考えていたが、ふいに何がなしぎくりと我にかえった。清は、ほっそりした良の手首に包帯を巻きつけながら、何か異様な表情で良の胸を見つめていた。なめらかな、裸の胸が、清のすぐ目の前にある。少女のようなうす赤い乳首のある、筋肉のないいかにも少年めいた胸だった。清は良の目に気づき、はっとしたように目をそらして、浅黒い顔に血をのぼらせた。そして照れ隠しのように呟いた。 「やっぱり病院行かんとだめだ。包帯ににじんで来ちまった──大きい血管じゃないから、縛っときゃとまると思った……」  ことばが口の中で消えた。清は、ほとんど怯えているように見えた。ふたりは、互いに互いの存在にゆえ知らず怯え、沈黙の彫像のように立ちすくんでいた。清は自分の無骨な手につかんでいる良のしなやかな手の感触を灼けつくように感じながら、手をはなすこともまた恐れてできないようすだった。良はふいにいろいろなことが一度に頭にのぼってきて、息がつけなかった。  手のいたみと、からだを流れる血管のどくどくと脈打つのが、異様なくらい大きな音を立ててひびいてくる。いつも、衣装をつけるのを手伝ってくれるとき、眩しいかのように、目を伏せて良の裸身を見まいとする清の表情が目にちらついた。ときどき、たちのわるい、共犯者に仕立てあげようというもくろみや、もっと気まぐれなふとした気分から、良がからかって弄ぼうとするときの、清の反応が、いつもきまってあまりに急激で猛烈な、なにか火の燃えあがるような激しさで、良をたちまち不安にしてひっこませてしまうことが思いうかんだ。さっき、車で送りながら、あんたはわるい子だと唐突に非難した、がっしりした動かないうしろ首。ふたりきりで、閉ざされた室の中にいることを、いたいように良は感じた。  もうずいぶん、自分の力に狎れはじめて、ひとを思うように動かせることに自信を持っていた良は、誰かといて、恐れたりしたことがなかった。清も、同じように恐れているのが、良にはわかったけれども、それは何も安心にはならなかった。帰ってこない、どこかの飲み屋で三次会、四次会に付合っているのであろう滝を、良は激しく呼び求めた。だが、足音もきこえず、エレベーターも動かなかった。良は清から目をそらし、ほとんどおずおずとして、包帯を巻きかけた清の手の中から、手を抜き取ろうとした。 「もう──いいよ、ありがとう」  良は自分の声が沈黙をやぶるのを恐れているように囁いた。 「まだおわってない──ちゃんと手当しなきゃ……」  清の声は咽喉にからんでかすれていた。清は、いくども良の胸から目をそらそうと努力しては、いつのまにかまた吸い寄せられるように、そのはっとするほど白い、なだらかにひきしまって腹へつづいている、余分な肉もごつい筋肉もない胸へ視線をひき寄せられていた。それは、男ともちがう、といってむろん女でもない、≪少年≫というあやしい異次元のはかない生物であることを、少女のような顔や、すんなりした四肢よりも、むしろはっきりと感じさせる、良のからだの中でも最も美しいエロティックな部分だった。ちいさな乳首は、厳密にはかって飾られた衝撃的なアクセントのように、いくぶん外側をむいていた。清は生唾を飲みこんだ。 「あとは自分でやれるから──」  良が、激しい声を立てたり、からだを動かしたりして、室にはりつめた薄氷をやぶるのが心配だとでもいうように、そっと手をひき抜こうとした。清は無意識に力を入れたので、傷ついた手を握りしめるかたちになった。  ぴくりと良の眉が寄った。開いた血管を圧迫して、とまりきらぬ血が再びあふれ出たらしく、清の手の中で、良の白い掌にはっとするほどの鮮かさで、包帯の下からにじみ出た血が赤い糸をひいてしたたった。 「あ……」 「だめだ……」  良と清の声が、それはむしろ無意識に出たようだったが、交錯した瞬間、それも無意識のしぐさのように、清は唇をもっていくなり、その血を吸い取っていた。声をあげて良は手をひき抜き、ふいに激しい恐怖にかられた目で清を見た。  良の恐怖が清を恐れていた狂おしい嗜欲にいきなりつき落した。何度もおそいかかろうとしてはせきとめられていた流れは、こんどこそせきをきった刹那に彼からすべての自制を奪った。バネ仕掛のようにとびあがった清のがっしりした体躯が、ベッドにかけていた良にのしかかるようにして押し倒した。なめらかなほっそりとしたからだが彼の下に巻きこまれるのを感じた瞬間、清は狂ったようになった。ものも云わずに、彼は良を押さえこもうとした。  山下におびやかされた良の神経も異常なくらいにとぎすまされていた。良は呻き声をあげて清を押しかえし、はねとばそうとむなしく身もだえした。その手首を握りしめ、もう一方の手で髪をつかんで、清の唇がわなわな震えながらかぶさって来ようとする。良は夢中で頭を左右にふり、そうされまいとした。どちらも一言も発さない。  それはどうやら肉食の獣と、その餌食との、いのちがけの戦いだった。清は荒々しい息の音だけをひびかせ、目を血走らせながら、片手で自分のシャツをひきむしり、そのあいまに顔を伏せて唇を吸おうとし、ほっそりした首すじに指をまわしてつかんで自分の顔に顔を押しつけさせようとした。良は獰猛な山猫のように暴れ、からだをそらし、頭をふり、清を叩き、ひきはがそうとした。清の固い筋肉は動転した弱々しい、傷ついた手の攻撃をなんの痛痒もなく受け流した。  彼は良を押さえこんだまま、片手と足を使ってジーンズを足からひきぬこうとして焦っていた。たけだけしい昂奮がさまたげて、思うようにならなかった。清は苦しいくらいに責め立てる欲望と焦慮にほとんど泣き出しそうになっていた。  彼は良をベッドにつきたおして立ちあがり、夢中で着ているものをぬぎすて、けりとばして、這うようにして逃れようとした良の足首をつかんだ。両足首を握ってひき寄せる。良はからだを海老のように折りまげて清の手をもぎはなそうとした。清の手が良のジーンズにかかり、もがく両脚に膝をのりあげて押さえこみ、ぬがされまいとして暴れるのを扱いかねて、いったん手をはなすと細い両手をいちどにつかまえて、右膝の下にきつく押さえつけた。左脚で、良の両脚を巻きこんで、くの字なりに横向きに押さえこまれて身動きできなくなった良のジーンズをひきはいだ。  良は呻き、激しく頭を左右にふりつづけた。清は泣くような激しい呼吸をしながらほっそりした裸のからだの上に、がっしりしたからだを倒した。肌がふれあうと清は逆上して良のからだをひっつかんだ。もどかしさのあまりどうしてよいのかわからぬようすで、必死にかぶりをふって拒みつづける良の上にのしかかって身もだえする。良ははねのけようとこちらはひそかな夜毎の悪夢のかえってきた思いに、恐怖のあまりやはり泣きそうになりながら、狂ったように身をもがき、手足をつっぱり、猛烈に暴れた。  清は獣のように怒りにかられてその頬を殴った。どちらもひとことも発さない。襲いかかった若者も、逃れようともだえる少年も、嘘にでも恋情を訴えもせず、憐れみを乞うでもない、奇怪な、荒々しい喘ぎと泣くような呼吸の音だけが争う物音にいりまじる沈黙の中の争闘は、いかにも二匹の若い野性の精霊のそれに似通っていた。  良の、いいかげんに包帯を巻きつけただけの傷はこすられ、つかまれ、手荒く扱われてたちまちまた傷口が開き、二人のもみあっているベッドの上に鮮血の、すぐ黒ずんでゆくしみをばらまいたが、どちらも気づきもしなかったし、良も傷の疼痛さえ忘れていた。  憐れみに訴えることも思いつかぬように、あれだけ手管を弄して大の男や女を手玉にとる技術に自信を持っている少年が、ただのひとことも、許しを訴えようとすらしなかった。清は大柄ながっしりした筋肉質の若者で、肉体労働で鍛えたこともあるというからだは抵抗にますます欲望をそそられるように、力を加えてきた。体重にせよ小柄できゃしゃな良とでは、二十キロ近くは差があったはずだ。良には、戦いに、勝ちめはなかった。  無言のもみあいに、みるみる良は力尽きてきた。かなりの出血のいたでもあった。かれらには恐ろしい無限の時間のように思われた、実際にはごく短い時間ののちに、清はしだいにしっかりと良のからだを敷きこみ、とうとう身動きもならぬようにきつく押さえこんでしまった。良は喘ぎながらはねかえそうとしたが、がっしりと乗りかかった若者を、その重圧から逃れるどころか、よろめかせることさえできなかった。清のたけだけしい欲望はいまや拷問のように彼を内側からさいなんでいた、彼は良よりも激しくさえ喘ぎながら、良の膝のあいだに身を割りこませ、さぐりあて、欲望を押しつけた。良はとうとうかすかな悲鳴をほとばしらせた。清は馴れていなかった。たちまち狂ったようになってがむしゃらにつきすすもうとし、盲滅法につきまくった。良は泣き声をあげて、なんとかして逃れようとからだをそりかえらせ、むなしくのたうった。清ももどかしさが頂点に達して、泣かんばかりだった。もういちど少年の頬を思いきり殴りつけるなり、再び彼はめちゃくちゃな突入をこころみた。うしろにまわった両手が激しく良を押し開く。やにわに、彼は、さぐりあてた。彼の呼吸が火になった。彼は、すさまじい力をこめて、その部分がひどい裂傷を受けるのも、良の異常な苦痛の絶叫も意識になく、しゃにむに貫いた。  少年のからだが硬直した。無意識に、とうてい耐えがたい恐ろしい苦痛に、涙があふれ出した。清は呻いた。彼は、無我夢中にからだをうごめかせた。そのたびに、良のからだがのけぞり、かすれた呻き声が開いた唇から洩れた。唇のはたが清の乱暴のために切れて、血が滲んでいる。シーツの上に投げ出されて、弱々しく痙攣するように布を握りしめている左手の手首からも、血が流れていた。良は生きながらむさぼり食われる獣のように、ひき裂かれる激痛に啜り泣いていた。清は大きく呻いてほっそりしたからだの上にがくりと頭を落し、うつぶせた。  それきりふたりは動かなくなり、死のような沈黙が来た。息づかいさえひそめられた。ときどき、少年の、苦痛に耐えかねたしゃくりあげるような呻き声が洩れるばかりだった。涙が、こめかみをつたわってあふれ落ちた。しかし、すでにもがく力も失ってしまったように、良はのけぞったままからだを硬直させ、折りまげた指にシーツをつかんで動かなかった。清もまた、動くことで、この生贄の儀式の静寂が乱されることを恐れているかのように、少年のからだの奥深くで、じっと硬直していた。  かれらは、何か、具現するはずの奇蹟を待っている信徒か、禁忌を破ってしまったことに途方にくれている稚い子供たちの一対のように見えた。  清は自分もまた良の苦痛を味わってでもいるように、浅黒い顔をぎゅっとしかめ、眉を寄せ、唇をきつく結び、目をつぶり、良の頬に、顔をよこにむけて頬を押しつけていた。良は小さく開いた唇からわずかに白い歯と、舌のさきをのぞかせ、息をつめ、身動きしてさらに残酷な責苦に貫かれることだけを恐れて、木をきざんだ人形のようにからだをこわばらせていた。  かれらの結合をへだてている皮膚は恐ろしいほど薄くなり、どんなわずかな刺激でも、かろうじてつつまれているその熱い内部がどっと湧出して、皮膚をつき破り、まざりあって溶けてしまうのではないかと思えた。その状態は、どちらにとっても、耐えがたく苦しいくせに、どちらもそれを変えようとする勇気がなかった。  ほんとうはどれだけの時間が流れたのか、ことに、恐ろしい苦痛に喘いでいる良にとっては永遠につづくのかと思われた酷い時間は、ふいに荒々しい音で断ち切られた。ドアが叩きつけられたのだ。 「そこで、何をしている」  冷やかな中に、凄愴な怒気をはらんだ声が降ってきたとたんに、良はすくみあがり、そのおののきがもたらした激痛に声にならぬ悲鳴をあげた。清のからだは、凍りついていた。どちらも、目を開くだけの勇気がなかった。  いたみに呻きながら、しかし、良は立てつづく衝撃に、もう動揺するだけの平静さも残っていなかった。力ずくで自由にされている、こんなみじめな姿を、最も見られたくない、見せてはならぬ人間に見おろされている。もうどうだっていい、と良はふっとうすれてくる意識の中で思い、目を開かなかった。いっそ、このままで気が遠くなって、息が絶えてしまうのではないか、と思い、それを望んだ。  驚愕のあまり清は無意識にからだを動かし、それが良に悲鳴をあげさせた。清のからだが萎縮し、はなれていったが、重いからだはまだ少年の上に乗りかかっていた。  滝は、幸福感、わずかに不安な予感をはらんだ幸福に酔いしれる心地で帰ってきたのだった。ミミが、すぐにも承諾を与えることを、彼は疑わなかった。問題は良だが、良だって、それとこれとはまるで別なのだということは、わかるだろう、わかってくれるだろう、と考えていた。 (おれが、結婚するか。かみさんを持つか)  途方もない冗談をまんまとしてのけたように、彼はひとりで歩きながらくすくす笑った。酔いをさましながら黒々とした彼のマンションが二、三の家の屋根をへだてて見えるところまできたとき、突然、彼は見さかいもなくとびだしてきた自動車にひき倒されかけてとびのいた。見たような車であるとまでは気づかない。彼は自分の思いに気をとられていた。酔っ払い運転だと舌打ちした。 「気をつけろ、ばか野郎」  うしろから怒鳴りつけたときには、車のテール・ランプはもう角をまがっていた。彼は下から見あげ、かれらの室の灯りが、どれも煌々とついているのに気づき、ふと眉をひそめた。良の奴、まだ寝んのか、と思った。 (まあ、いいか──ショーが打ちあげで、このあとあさって録画、その次から『ジャム』のディナー・ショーだが、明日一日は休みだし──もう今日か……奴には、二カ月ぶりの、休日だからな。おれは、甘やかしすぎかな)  かすかな、和んだ微笑が、滝の口もとをかすめた。この、柔和な造作をたえず内面のしぶとい厳しいものが裏切っているような男にあろうとは誰もが夢にも思わぬような、しんからのやさしい父親めいた微笑である。  彼は同居者たちをはばかって、エレベーターを使わずに、ゆっくり階段を上った。ドアの前に、スーツケースなどが出しはなしになっていた。ふいに、何か、変事の予感が滝をとらえた。空気の中に、凶変のおののきがひそんでいた。滝の目が光り、彼はあわただしくドアをあけ、中に入った。  寝室のドアがあけはなしになっていた。彼の目に入ったのは、奇妙なくらい鮮かな、投げ出された良の手首の血の色と、そして、こちらに背を向けて少年の上にのしかかっている裸体だった。良の顔は見えなかった。ひき裂いて投げ出した衣類が、そこで行われていることの暴力によることを示していた。滝は息をつめた。 「そこで、何をしている」  彼は低い声で云った。 [#改ページ]     17 「清!」  滝は、瞬時に凍りついた二つの彫像にむかって、鞭のような声で怒鳴った。 「云え! それは何の真似だ?」  清の裸の尻は動かなかった。滝は目の前に赤い靄が湧き起り、いきなり足をあげて、彼を蹴った。すでに良からはなれていた清のからだはふいをつかれて、ぶざまな石像のように横転し、そのままベッドの下へころげ落ちた。清はまだきつく目を閉じていた。目をつぶっていれば、夢がさめないのではないかと思っているかのようだ。ベッドの上で、ぐったりとしたきりの良も、目を開かなかった。滝はちらばっている衣類をいいかげんに足で清の上へ蹴りとばした。 「出て行け」  彼は恐ろしい声で云った。 「出て行け。二度とおれの前に薄汚い面を出すな、犬」  清は目を見開いた。目の中に、黄色い憤怒の炎が燃え狂っていた。何に、どう怒ってよいのかわからぬ、罠にかかった獣の目だ。やにわに清はものも云わず、滝に体当りしてきた。  滝は、予期していた。からだを横に開きざま、両手を握りあわせて、清の後頭部を叩きつけ、ぐらりとかしぐのを下から思いきり膝をまげて蹴上げた。膝頭が清の顎にあたり、清はうめいてころがったが、すぐに立ちあがった。全裸の姿が、滑稽だったが、どちらもそれどころではなかった。  滝の中に、常におしひそめられて噴出を待ちこがれている荒々しいすさまじいものが、狂喜の叫びをあげておどり出してきた。素人衆よりも、ずっとやくざやてきやの方に近い世界の住人だった。興行関係のもめごとで相手の雇ったちんぴらどもに取り囲まれることもある。滝は喧嘩が好きだったし、巧みで残忍でもあった。  十以上も若い利点が清にはあったが、長びかせるのは滝に不利だった。東北の若者は和牛のように逞しかった。  清は鼻血をしたたらせながら牛のようにわめいてつかみかかってきた。がむしゃらに、掌を固め、みぞおちを狙ってくるのを、かるくはずして相手のみぞおちに手首まで拳を埋めた。  清は胃をかかえて、嘔吐するように顔をゆがめ、拳をふりまわしたが、もう参りかけていた。滝は容赦せずに両拳と膝とで自らの勝利を確保した。清の目尻が切れた。清は口をゆがめて血の筋と一緒に折れた歯を吐き出し、腕をあげてむなしく打撃をふせごうとした。  魅せられたような酩酊が滝をとらえていた。滝のかろうじて飼い馴らしておさえている、彼の嗜虐はときはなたれ、たけりたった。固い筋肉に拳を叩きこみ、ひき起し、思うさま叩きのめす歓喜に彼は何もかも忘れた。  清はもうむかって来なかった。うずくまったまま、ぼろぎれのように血だらけで頭をかかえていた。ベッドの上で良が息をつめていた。しびれたようにからだが動かなかった。清はとうとうからだを折りまげ、ぐったりとなってころがった。  滝は息をはずませ、頭から辛うじて血の色の靄が晴れてゆくのを感じながら、底光りする目で清を見下ろした。彼の方は少しもダメージを受けていなかった。 「出て行け。|くに《ヽヽ》へでも、どこへでも、消えちまえ。退職金は明日おれのいない時間に事務所に取りに来い、一月分だ。渡辺に云っておく──つまらん考えを起すんじゃないぞ、良にむかってつまらん気を起した奴らを、おれがどう扱うか、きさまがいちばんよく知ってるはずじゃなかったのか。ブラッドのことを思い出すんだな。わかったら、消えろ」  滝は清の肩をつかんでひき起し、ドアの外へひきずっていって、つき出した。服をまとめて放ってやる。ドアの列は都会人の心を示すように冷えびえとしまったきりで、コンクリートの廊下の上の方の窓から、しらじらとした夜明けの光が見えはじめていた。  滝はもう一度清を見下ろしてから、ばたんとドアをしめ、鍵をかけた。大股に寝室に戻る。そこは、惨憺たるありさまになっていた。滝は、手をのばし、良の肩をつかんだ。 「大丈夫か。この怪我はどうしたんだ、清か」 「さ──」  良はびくりとして滝の手をもぎはなそうとし、身をすさらせた。 「なんだ、どうした、お前」 「さわらないで! 見──見ないで、見ちゃいやだ!」 「大丈夫だよ、大丈夫だよ、良、もうおれがいる、大丈夫だ──おちつけ」 「あ──あっちへ行って!」  良は呻いた。が、急にはねかえるようにして、滝にしがみついてきた。滝は冷えたからだを抱きよせ、しっかりと抱きとめた。 「落着くんだ──どうしたんだか、話してみろ」 「い──いやだ──怒るから──いやだ……打たないで!」 「そんなことはしない。──かなり、深いんじゃないか。動脈は切れていないようだが──平気か、貧血してないか」  滝はつとめて平静を保って話しかけたが、腕の中で、良の痙攣がやまぬのをみて、そっと良をはなそうとした。良はしがみついてくる。やわらかく、しかし力を入れてひきはがし、居間からウイスキーの瓶をとって来、栓をあけて、口に強い酒を含み、抱きよせて良の口に注ぎこんだ。良の咽喉が動き、やがて力がつきはてたように、滝のなすがままによこたえられた。  滝はパジャマを着せてやり、血止めをし、消毒して包帯をしなおした。血に汚れたシーツをはぎとってまるめ、良の肩まで布団をひきあげてやり、かるく叩くようにして、腕をのせた。 「さあ、落着いたか。もう、いいだろう──もう、清は二度とあらわれないよ。心配せんでいい。なんであんなことになった? 奴はお前に参ってるのは知ってたが──あんなことをする奴じゃないと思ってた。何も怒りゃしないから云ってみろ。お前が、挑発したのか。この怪我は、奴か。さあ、困った奴だな──おれが、どんなことでも、ちゃんとよくしてやることは知ってるだろう。いつだって、おれはお前のことしか考えてないんだ──いいから、云ってみろ、何があった」 「あ……」  良は喘いだ。弱々しく目を開き、青ざめた顔に目ばかり光らせて、滝を見あげる。からだが激しくいたみ、手首の傷も疼くようにいたんだが、熱にうかされたように昂ぶった心と衰弱したからだに、いちばん深いところから、何か奇妙な甘ずっぱいものが湧きあがってくるのだ。滝の目をのぞきこむようにして、良は力ない息を洩らした。滝が眉をひそめた。 「いたむのか。大丈夫か、医者に行くか?」  良は首をふった。滝は上体をベッドにのしかかるようにして、ベッドの脇に膝をついたまま、片手を良の胸もとの布団の上にのせ、もう一方の手を良の頭にまわしてそっと髪を撫でた。 「もう、大丈夫だよ、良」  滝は、がんぜない子供でもあやすように云った。 「さあ、云ってごらん」  良は唾を飲みこんだ。       * * * 「──気分はどうだ」  目がさめると、滝が笑いかけていた。午後の日ざしが、白いベッドカバーの上に落ちていた。室はきれいに片付いていて、コーヒーの匂いがした。良は、昨夜来のことが、まるで深い眠りの中の悪夢にすぎなかったような気がした。しかし、疼痛が、そうではないことを教えていた。 「ぼく──」 「よく寝たよ。もう、五時だ。薬の量をまちがえて、殺しちまったかと思った」  良は青い顔でかすかに笑いかえした。ずっと気分は落着き、むしろ衰弱した中の平和のようなものが良を浸していた。いたみも、ずっとおさまっていた。 「ぼく……」  良は何を云っていいかわからずに口をつぐんだ。むやみと甘えたいような、羞恥に全身のほてるような、奇妙な気分が良をつつんだ。滝は落着きはらって煙草を吸いながら何か読んでいたが、煙草をおしつぶすと立って側へ来た。かわいたあたたかい、大きな掌が良の額を押さえた。 「熱もない。──やっぱり、若いんだな。どうだ、起きてみるか」 「うん」  良は口ごもり、滝を見つめた。 「変な──顔してない?」 「大丈夫だ」 「青いでしょう」 「きれいだよ。腹へってるか」 「少し──わかんない」 「食えば、元気が出るよ。コーヒー入れといてやろう。かるく食っとけ。もうそろそろ晩飯の時間だけどな」 「ちぇ、休みなのに、一日損しちまったな」  元気だ、よかった、と滝は考えて笑った。良は布団をはねのけ、起きあがろうとして思わず眉をしかめて滝を気にした。滝は何も見ぬ顔で、キチンの方へ立っていった。良は用心深く立って見た。少し足もとがふらつく。  シャツとジーンズに着更え、顔を洗いにゆくと、鏡の中から、やはり青ざめて、目の下の黒ずんだ弱々しい顔が見かえしたが、思ったよりはずっと平静な表情に見えた。良はいたみに顔をしかめ、左手をかばいながら顔を洗った。 「この手またいろいろ云われないかしら」 「階段でくじいたとでも云っとくんだな。ミルク入れるんだな」 「サンキュ──ねえ、どうなった?」 「お前が寝てるあいだに、すっかり、片付けたよ。山下は──あれは別だ。表沙汰にせんから、二度と良に近づかんでくれと云うことにした。次の曲はまた、会議で決めるが、もう、なるべくもめそうもない奴に頼むさ──まあ山下も、もう頭が冷えてるだろうし、そうなれば、いくらお前に惚れてても、わが身の安泰とひきかえならあきらめもつくだろうさ。奴だってばかじゃない。──アフター・ケアつきでおさえてやることにすれば、またひとつ恩を売ったというもんだ。清の方は、二度と姿を見せんだろう。おれは公平な人間だから、退職金をやるからとりに来いと云ったんだが、この分じゃ来なかったらしい。もう東京にいないかもしれない。お前を逆恨みして狙うような奴だとは思わん」  良は黙りこんでトーストをかじっていた。目が少し光っていた。 「まあ、もとはと云えばお前がつまらん気を起してあの真面目一方の奴をからかってみたりしたのがわるいんだ、身から出た錆だ。山下だってだ。それはわかってるだろうな」 「……」 「別に、お前を責めてるんじゃないさ。少しはこりたろうと云うんだ。男を舐めると怖いんだ。よく覚えとけよ、以後は」  良はふくれ面でやたらとパンの粉をテーブルにまきちらした。 「だってぼくのせいじゃないやそんなの」 「また口答えか。仕様のない奴だ」 「だって……」 「だってじゃない」  滝は手をのばして、かるく良の頬を叩いた。 「もし何だったら、無理に起きてることはないぞ。明日の仕事で、お客様に変なステージを見せたり、青い顔を出すわけにゃいかんからな。明日はドーランでごまかせても、あさってからのライヴ・スポットじゃそうはいかん」 「平気だよ、もう。でも、寝ようかな、もう少し」 「そのほうがいい。めまいは、するか」 「平気」 「また貧血を起されては困る。──とりあえず、あしたからの仕事には、ナベに戻って貰うようにしといたがね」 「その方がいいや。ぼくナベちゃん、好きだよ、やさしいし、話わかるから」 「甘やかして仕様がないんだが。また頼んでしっかりした人をさがして貰おう。ナベはサブマネって格で、便利で手ばなせないからな。もういいのか」 「うん、あんまり、腹へってないんだよ」 「寝るのか。待てよ、さっき洗濯機をかけておいたんだ。そろそろおわるから、少しのあいだ、電話を寝室に切りかえといてくれ。もう少し残っているから、片付けちまおう」 「おかしいや、滝さんてまめだからな」 「何がおかしい。男だって、二十年もひとりぐらしをしていれば、料理、洗濯、何だって主婦なみになるさ。──手、怪我してるから、特別に皿洗いは免除だ。ゆっくり、休んどけ」 「うん」 「あんなこと、忘れちまえよ」  滝は滅多に見せないような、やさしい口調で云った。良の頭に手をのばし、かるく小突く。良は滝の手の下でじっとしていたが、睫毛をあげて、まかせきった猫のような素直な目で滝を見つめた。  その目を滝は二度と忘れることができなかった。それは、これ以上ないくらい、無防備な、単純な、雄弁な目だった。良が、他の人間には、また滝にでも昔は、決して見せなかったし、いまでもほかの人間がひとりいても決して見せない表情なのだ。それを得るためにこそ、滝は、滝俊介の名も、プロデューサーとしての地位も、何もかも賭けたのだと云ったってよかった。  良のショックを気づかった滝に、良の目は、あなたがいるから、と云っていた。あなたがいるかぎり、何もこわくない。何があったってかまわない。あなたがよくしてくれる。あなただけは決してぼくを裏切らない。ぼくはあなたがそうだと信じているし、そうであるかぎり、あなたもぼくを自由にしていい。  それは、人間が人間から得られる、最も美しい神聖な貢ぎ物だった。それを裏切ることは殺人より酷い罪悪であるような無防備な信頼、完全に身をゆだね、生命を預けた安楽さだった。  滝の胸に、しみいるようないとおしさが湧いてきた。それは透徹した瞬間だった。滝は洗礼をさずける司祭のように良の頭に手をおいていたが、ふいに、おそってきた途方もない甘さへの惑溺に恐れをなしたように、立ちあがり、バス・ルームへ逃げこんだ。  良は滝を見送り、電話を切りかえ、新聞をもって寝室に入っていった。自堕落にベッドに身を投げて、楽なようにからだをのばし、何か楽しいことを考えているような微笑をうかべ、新聞を眺めた。知らず知らずのうちに、太陽の光をむさぼり、そのぬくもりの中で存分にからだをのばしているような安らぎの微笑である。  バス・ルームから、洗濯機のがたがたいったり、水の流れたりする音がきこえてきた。良はそれに耳をすませ、昨夜来のことはなるべく頭にうかべまいとしていた。もう済んだのだ。滝がいいようにしてくれた。山下など、清など、いなくても、少しも良は困りはしない。自分に乱暴をはたらこうなどという気を起したかれらを、良は許せなかった。  どこへ行っても少女たちの歓声に取り巻かれ、サインや握手を求められ、讃美され、周囲の人びとはかれの一顰一笑に一喜一憂する日々の中で、良にはいつのまにか帝王の誇りともいうべき自恃が育っている。人の心は良のものだった。  滝は良を甘やかし、それが自分にさえむかわなければ、たいていのことは看過していたので、良は、人の心を弄び、ひきつける、危険なたわむれの楽しみを覚えていた。  だが、それはあくまでたわむれでしかない。その挑発や手管にのって、狂わされた男たちがその欲望をむきだしにしてくると、良は腹を立てた。それは、あるいは、内心では、力ずくで自由にされる無力な獲物でしかないと知っている良の激しい残酷な抵抗と拒否であったかもしれない。良は自らの力が相手の屈服と隷属というひそかな黙契の上にかかっているもので、万一それがときはなたれてしまえば、相手よりはまずその持主自身を傷つけてしまうような、双刃の剣であることを、ちゃんと知っていた。  だからこそ、良には、その黙契を破り、おとなしい奴隷が突然反乱して非力な皇帝の肉身に手をかけてくるようなことが、許すわけにいかないのだった。それは冒涜の瞋恚を誘った。山下と、清とは、良のどこか不具な稚い心の中では、すでに徹底的に放逐されていた。それは憎むよりもさらに厳しい拒絶だった。  良は滝のふところに逃げこみ、すっかり身を寄せて、その安全なふたりだけの場所からだったら、安んじて、全世界にでも、ふたり以外のすべての人間にだって峻烈な拒否と侮蔑とをかえしてためらわなかっただろう。滝が良を支えていた。滝は──  電話が鳴った。思考の流れを中断され、いやいや夢からさまされた人のように良は受話器をとった。バス・ルームからは水の音がやかましい。 「もしもし」  低い音楽的な女の声が云った。 「滝さん?」  つづいて良の反射的にしたことを、良自身にも、どうしてかときちんと説明するのはできなかったにちがいない。それは相手の誰であるかをききなれた声の内に知った瞬間の、無意識な動作といってよかった。良はいきなりシーツの端をつかんで受話器の通話口にかぶせた。そしてなるべく滝に似せた、低い声を出した。 「ああ」 「あたしよ。どうしたの、声、へんね」  良はあいまいな声を出し、ちらりとしまったドアの方を見た。ドアの向うには、まだ洗濯機の音がつづいている。 「きのうのことよ。考えたの」  ミミは長くいぶかしんでいられる気分ではなかった。 「ほんとは、あなたが帰ったとたんに決まっていたわ。だけど──きっと、もったいをつけたかっただけね。いいでしょう、そのくらいは。──もうわかってると思うけど、答はイエスよ。あなたと結婚するわ。わたしとあなたのためには、それがいちばんいいことだと思うわ。もちろんあなたは──滝さん? どうしたの、なぜ黙っているの」  ミミの声の調子がわずかに不安をおびた。 「何か云って。もう、気が変った?」 「滝さんは──」  良の声がかすれた。良のまわりで、良のガラスで守られた陽だまりが、ゆっくりと、こなごなに砕け散った。良の手からシーツの端が落ちたが、それにも気づきもしなかった。 「滝さんは──」 「あなた滝さんじゃないの?」  ミミの声が変った。 「ジョニー? ジョニーなのね? なんでそんな──さっき……」 「滝さんはそんなことしやしないよ!」  良は喘ぐように云った。云ううちに涙があふれだしてきて、さいごの方は悲鳴のような声になった。 「なんだってあたしをだまして──かわってよ。滝さんを出してよ。いないの?」  ミミは落着こうとつとめているのが声でわかった。 「いないよ。いるもんか──滝さんは──滝さんはあんたと結婚なんかしない。そんなことあるもんか! 滝さんはいつだってぼくと一緒なんだ、あんたが嘘ついてるんだ」 「滝さんを出しなさい。出すのよ。さもないと、切るわ!」 「切ったらいい。早く切りなよ。滝さんはあんたなんか、用はないんだから」 「子供の知ったことじゃないわ。かわりなさい!」 「いやだ!」  良は激昂して叫びかえした。危険な炎が野火のようにもえひろがり、良を呑みこもうとしていた。 「滝さんはあんたなんかと結婚するもんか! 滝さんは何にも云わなかったもの。あのひとはぼくのことっきり考えてないんだ。結婚なんか!」 「あんたにはわからないこともあるんだわ」  ミミは事態を納得すると、少し落着いてきた。その声から、良は、自分の優位を知った年長の女のいたわりに似たものをかぎとった。それはたちまち良の憤怒をあおりたてた。 「滝さんはあなたのマネージャーよ。あなたのことは考えてるでしょう。でも、それとこれとは別だわ。それじゃあなた、滝さんを一生縛りつけておける気? あのひとも、いずれは次の仕事にうつらなくちゃならないわ。それともあなたは、自分のためにあのひとを犠牲にしてしまうつもり? あなたがあのひとと結婚するわけにはいかないわ。あのひとに一生、家庭も幸福も安住の地もなしでいろって云うの?」 「そんな──そんなの関係ないんだ。ぼく、滝さんがいなけりゃいやだ。ぼくは──滝さんはぼくをはなれるわけがないよ。滝さんがあんたに嘘ついたんだ。そ──そうに決まってる。ぼくにはわかるよ。滝さんは──あんたを憐れんだんだ!」  突然ミミが押し黙った。良は急所をとらえた残酷なよろこびに酔った。いけない、そんなことを云ってはいけない、それだけはいけない、と良の中の最も深いところで悲鳴のように警告を発するものがあったが、もう、いつもの、口から出まかせに相手を翻弄する、酩酊するような力の感覚が良をつかんでいた。 「そうだよ、憐れんだんだ。あ──あんたが男にすてられて、もう婆さんで、ヒット曲もなくなって、だんだん落ち目になっていくから、可哀そうだと思って、結婚してやろうと思ったんだ。あのひとが云ってたもの、あんたが可哀そうだから何とかしてやらなくちゃって──ぼくに云ってたよ……」 「嘘!」 「嘘なもんか! 憐れんでるだけだ、それがあんたにはわからなかったんだ。あのひとが好きなのはぼくだけだよ、あんたなんか、どうだってかまやしないんだよ、憐れんで──憐れんで……」  良は叫び声をあげてとびすさった。うしろから、やにわに鉄のような指が受話器をもぎとったのだ。 「ミーコ! ミミ!」  滝は叫んだ。冷たく押し黙って、電話はとっくに切れていた。ツーッ、ツーッ、という音がむなしく受話器の底から湧いてきた。滝はそれを叩きつけ、良にふりむいた。目が、すさまじい光にらんらんと燃えていた。  良はこれも目を光らせたまま、壁に背をつけ、一歩もひかぬ怒りをみなぎらせて滝をにらみかえしていた。底に、一歩でもひいたらそちらがそのままくずれてしまいそうな、錯綜して、恐ろしくもろいものを秘めた互いの憤怒がほとばしり、ぶつかりあい、どちらもひこうとしなかった。 「何てことを云ったんだ、貴様は!」  滝は怒鳴った。舌がもつれた。怒りのあまり歯がみして、彼は手をふりあげた。良はびくりとしたが、これも滅多に見せぬ徹底的な反抗の気構えで、降ってくる滝の手をよけなかった。一撃でふっとんだ良にとびかかってひき起し、滝は良の頭ががくがくするくらい、猛烈にゆすぶった。 「殴れよ、殴ったらいいよ、畜生!」  良はわめいた。 「よくもあんな──貴様は、そこまで根性がねじけてるのか。ミミが──ミミが死ぬようなことがあったら、貴様のせいだぞ、このばか野郎」 「そんなことあるもんかあんな売女!」 「もう一度云ってみろ、その首を叩き折ってやる」 「やってみろ、何度でも云ってやらあ。売女! 淫売! スケベ女! 淫水女郎! あんたは檜山健二のお余りなんか欲しいの! あんな色気狂い女──」  滝はそれ以上云わせまいと再びはりとばした。良は手の甲で、切れた唇のはたをぬぐった。 「ミミを侮辱するな。許さん」 「裏切者!」  滝が鼻白んだ。良はいよいよ激しく攻め立てた。 「裏切者! ぼくを裏切るんだ。嘘つき、卑怯者──ぼくをだましてたんじゃないか。あんたなんか嫌いだ、大嫌いだ、大嫌いだよ!」 「一体おれが何をだましたっていうんだ」  滝は怒鳴ったが、我知らずその声に弱々しいものが忍びこんでくるのを、どうすることもできなかった。その思いは、無理にひそめていた滝の心の最も深いところに、たしかにあったのだ。 「だましたじゃないか! ぼくのことしか考えてないなんて云って! いつでもぼくのことしか考えてないなんて云ったくせに! ぼくをだましてた、だましてた、だましてたんだ!」 「おれはお前の父親でも何でもないんだ。お前だっていろんな連中といいように遊びまわっていたんじゃないのか。それに──それに、話すつもりだった。きのう──あんなことになったんで話せなかった。ほんとうだ、誓う」 「裏切者!」  良は絶好の武器を手にして、容赦なくそれをふりまわした。 「もう何にもきくもんか、何にも信じるもんか、ぼくのことだけ考えてるって云ったのに! 結婚だなんて──嘘つき、嘘つきの裏切者!」 「いいかげんにしろ。我儘もたいがいにしろ、この、甘やかされた、嘘つきの餓鬼め! いったい貴様は、おれにどうしろって云うんだ。いつだって、おれは貴様ばっかりじゃないか。貴様を助けてやらんことがあったか。貴様のためにならんようにしたことがあったか。こんなに、考えてるのがわからんのか! これ以上どうしろって云うんだ、貴様にいかれて、首でもくくれって云うのか? どれだけ甘やかしてやれば満足するって云うんだ?」 「ぼくのことしか考えてないって云ったのに!」  良は執拗にくりかえした。苛められた子供のような憤懣の涙がぽろぽろとこぼれ落ちてくるのをぬぐいもせずに、良は激しく地団駄をふんだ。覚えず滝はひるんだ。  自分が、つい、良を買いかぶって、それともようやく得たふたりの信頼関係に甘えて、うっかりと致命的なまちがいを犯してしまったことに、すでに滝は気づいていた。それが良に手ひどい裏切りであったことを、認めないわけにはいかなかった。二つに切りわけた心の一方などで、良は満足しなかった。すべてか、無、しかなかった。滝は油断していたのだ。 「良──落着いて話そう」 「いやなこった!」 「なあ、良、頼むから──」 「うるさい、うるさい、黙ってよ! もう何もあなたの云うことなんてきかないよ、信じやしないよ、裏切ったんだ! ぼくひとりのはずだったのに! ぼくのことだけ考えてるって云ったのに! 嘘つき、嘘つき、あっちへ行け! 滝さんなんか!」 「良!」  さまざまな混乱しためくるめくような激情が滝の中で交錯した。滝は良の衿をとらえ、幾度も叩いた。  手をふりあげるたびに良はびくりとして身をちぢめたが、いっこうにひるむ様子はなく頬を押さえ、目に涙をため、滝の殴るあいまにもう自分でも何を口走っているのかわからぬように滝を罵りつづけた。だが声の調子がひそかに変っているのに、どちらも気がついていた。殴り、罵りかえすなかに、和解と甘えの最初のきざしがそっと忍びよっていた。  かれらには、互いしかない。すべてのことはそれをたしかめるきずなでしかない。かれらはきっかけをさがしているようなものだった。もし滝が殴るかわりに良の手をつかんでひき寄せたら、良のからだは無抵抗に滝の胸にくずれこんできただろう。滝が、自分は良のものであると、あれはまちがいだったと、認めさえすれば、良はいいのだった。かれらはどうなろうとも、互いを失おうとは、そんなことが可能だとは夢にも考えてはいなかった。  良はむしろ裏切りのにがみをこっそりすりかえて、何かたしかなものにしてしまおうと無意識のうちにもくろんでいるようだった。  良はいつでもさいげんなしに甘えたがり、滝の関心を得たがり、それを独占したいのだ。滝は滅多に手ばなしで甘やかしたり、言質を与えたりしなかったから、滝が自分の裏切りを認めて屈服すれば、その勝利に良は有頂天になり、それ以上滝を責めるつもりはなかった。  滝にもそれはわかっていた。だがそれが見えすくだけ、屈服したくないのもまた、彼の病気のようなものだった。  古い意地がまた首をもたげてきた。彼と良とは互いのはりつめた糸をびりびりとひきあってみているのにすぎなかった。  滝はミミのことをすでになかば忘れていた。あるいは無理矢理に心から追いやっていた。かれらは何で争っているのかもなかば失念し、ただ降伏させようとし、させられまいとして、あたかも緊張した恋の瞬間のように心をはりつめて向きあっていた。  そのとき、電話が鳴った。  滝は手をのばした。良はいきなり滝を押しのけようとし、やっきになって、出させまいとした。それを腕で払いとばしておいて、滝は受話器をつかんだ。 「もしもし」 「ミミか! おれだ、ミミ、きけ、きくんだ」  滝の中で再び冷えてゆくものがある。ミミの声は平静だった。平静すぎた。 「滝さんに云って下さいな。あたしは、憐れまれるほど、落ち目じゃないわ。これまでひとりでやってきたし、これからもやっていけるわ。どうぞ、ご心配なく、さようなら──って」 「ミミ、待ってくれ。きくんだ。話をさせてくれ」  電話は切れた。滝はしばらく見つめていて、それから受話器をおろした。それが、彼とミミの長い友情とつきあいのおわりだとは、思いたくなかった。  彼はゆっくりとふりかえった。良は滝を見つめていた。壁に背をつけ、彼にさんざん殴られたので服も髪も乱れ、憐れなようすになって、すわりこみ、親指を無意識に激しくかみしめて、奇妙な表情で彼を見すえている。  それは、ようやく、和解と愛の独占へ、ことがはこびだしたとたんに、いまの電話が再び滝を硬化させたと知った、苛められた子供のように哀れで、恨めしげで、そのくせ滝がまだ怒るならとことん反抗してやろうというふてぶてしい内心をもはっきりとのぞかせている、錯綜した表情だった。  滝は何も云わずに良を見つめていた。ミミを失った、と彼は思った。ミミは、プライドをないがしろにされることだけは許さない女である。ミミを失い、かわりに良が彼を見つめている。怒るなら、怒ってみろというような目で。それはどこかでたかをくくっている目だ。  滝の溺愛と執着を確信し、どれだけ怒ったって、結局さいごには彼は自分を愛しているのだ、許してくれるのだと思っている。そのための手続きに必要なら、甘え声を出しても、抱きついて泣いてもみせようという、それでも滝が怒るならこちらもそのつもりで反抗しようという心の動きの見えすく目。猫の目だ。良の怒りだって、心ゆくまでかまってもらえなかった猫の怒りにすぎないのだ。  猫は、毛をさかだて、背を丸め、目を光らせて、爪を出した。そして、滝の中のやわらかいところ、つまりはミミの心をしたたかに掻き破った。爪には毒があった。黒いつややかな尻尾のさきがぴくぴくとくねり動くのをまのあたり見るような気が、滝はした。  猫は、滝の溺愛が彼を捕えており、結局彼が怒りを忘れ、許すのは時間の問題だと知って待ちかまえている。目が青く光っている。滝の中に、いちばん奥深いところから、ふいに圧倒的に、胸苦しく、すさまじい勢いでつきあげてきたものがあった。  それは──口惜しさ、にほかならなかったかもしれない。すべてが良の無意識に見抜いたとおりであり、自分の深い惑溺ははじまっており、彼は良に敗けるほかはないのだ。彼はすでにえらんでいた。それがさいごには良への屈服であるということを、彼は認めたくなかったのかもしれない。  それは彼をどこにつれてゆくのか、それを見るのが彼は恐ろしかった。そして、無念だったのだ。良が何をしても自分が許すだろうということ、良がたかをくくっているとおり、たとえ許しがたい淫らな乱行におちいっていても、彼が妻と呼ぼうと決心したおそらくひとりきりの女を決定的に傷つけても、許してしまう、許すほかにどうしようもないだろうということが、怖かったのだ。  えたいのしれぬどろどろとしたものが彼の足をすくい、呑みこもうとするいまになって、彼の内につきあげた口惜しさは耐えがたいまでに激しい叫び声になり、解放を求めて喚きたて、さいごの抵抗をこころみようと身もだえした。  それは彼があらがうにはあまりにも強く圧倒的な、いわば彼の、良を知るまでの、良を愛しはじめていると知るその前までの彼自身のすべての生き方からの抗議の悲鳴にひとしかった。  滝は良を見つめていた。良は滝の長すぎる、しだいに異様な光を帯びてくる凝視に怯えはじめていた。生意気な、たかをくくった表情が消え、目が大きくなり、不安がその奥にちらつきはじめた。  思ったように反応せぬ滝に、ふとふだんは心の底でなだめられて眠っている、彼への恐怖が目をさまし、うごめいた。可憐な表情になった。滝は息をつめた。良を美しいと思った。この一瞬がすぎれば、自分はこの少年に全面降伏し、何もかも許してしまわざるを得ないだろう、と悟った。この少年は滝が抵抗するには美しすぎた。何も知らぬくせにあらゆる手管が身にそなわっており、その考えが見えすくのさえ可憐だった。  猫の魔性は完璧な罠に滝をとらえ、ゆっくりと網の目をちぢめていた。すでに生贄の血の味を知っている魔物だった。彼自身が良のために有能で個性のある生気にみちた五人の若者を屠っていた。そのうちのひとりは死に、ひとりは廃人になっている。清のこと、山下のこと、二年間も、影のようにつきそい、あびるように金を費い、あらゆる愛を注ぎながら、たった一回の反乱でたちまち逐われ、屠られてしまった山下のことを考えた。そしてミミのことを考えた。  良の中にはふれるものに凶運を招くいまわしい魔性がある。それはわかっていた。そしてそれはいま、深淵の口を開いている。彼を待ちうけている。彼自身を次の生贄にしようとじりじりと包囲をちぢめてくる。 「良!」  許せない、と彼の中で何か絶叫するものがあった。それはむしろ彼の恐怖と、自衛の本能にすぎなかったのかもしれないが。急に良が壁に背をつけたまま、立ちあがった。目に、ほんとうに怯えはじめたものがうかんでいた。滝の目がいつものように良を見ていないこと、良をつつんでいる凶々しい魔性をまっすぐに見つめていること、それを獣のようにとぎすまされた本能で良はすばやく感じとり、そして怯えていた。なぜ、怯えるんだ、良、と滝は思った。  お前は、俺を信じていたんではなかったのか。俺になら、何をされてもいいんではなかったのか。良は喘ぎ、滝から目をはなさずに壁に背をつけて動いた。いつのまにか、真青になり、目ばかりが光っていた。滝の目の中に、何か良を恐怖させるものがむっくりと起きあがっているのだ。 「どうして──どうしたの──何……」  良は喘いだ。かすれた声はほとんど声にならなかった。 「俺が怖いのか」  つぶれたような、それもほとんどききとれぬ声で滝は呟いた。ふたりは互いに、相手の目から目をはなしたら激流に呑みこまれてしまうとでもいうように、見つめあっていた。  滝の手がゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、それ自体が独立した生物、二つの大きな蛇であるかのようにじりじりと上へ動いていた。滝は自分が何をするつもりなのか、どうしようと望んでいるのかも、よくわからなかった。手をのばしながら、彼は少しずつ良を追いつめていた。  良は激しく首をふった。滝の目から目をはなさず、追いつめられた表情で、無意識のように頭を左右にふりつづけた。良の足が床の上のなにかにつまずき、止まった。滝は心臓が止まったような顔になって見あげる良にゆっくりと手をさしのべた。  さあ、つかまえたぞ、猫め、と滝の中でなにかが哄笑をひびかせた。怖いんだな。俺に何をされるかと思ってるんだ。怯えている。  一体、何が怖いんだ? この仕様のない、悪魔め、俺のどこが怖いというんだ? 滝は良の両腕をつかんだ。手が、ゆるやかにほっそりした腕から肩を這いのぼり、そしてまるで愛撫するようにして、咽喉のくぼみにまといついた。なめらかなしっかりとした感触がぞっとするほど快かった。  彼のなかの何かとの戦いに破れ去った何かが、何百光年もへだたっているように思える遠くから、かぼそい警告の悲鳴を送ってきたが、彼は耳をかさなかった。イケナイ、イケナイ、ヤメロ──  滝は良の目を見た。それは信じられずに見開かれていた。良には、それが滝のさいごのレジスタンス、惑溺になだれこんでゆく瞬間の、哀れな無念さの噴出だなどと、わかろうはずもなかった。  良はミミからの決裂の電話をうけて、滝のようすが変ったことをしか、知ろうはずがなかった。良は滝の白い炎を放つ虎の──手負いの虎の目を見あげながら、息もつけずに、恐怖に凍りついていた。小さな唇が開き、とがった舌のさきがのぞいていた。薔薇色の唇が、かわいていた。それを、唇でおおいつくしたい、激しい誘惑を彼は感じたが、そうはせず、そのかわりに、じわじわと、強い指に力を加えた。  良の咽喉が鳴った。すべての術策も失うほどに、信じられず、呆然として、滝の殺意を見つめている良が、滝はどうしようもないくらい憐れになった。  抱きしめて、苛めて悪かったと、二度とそんなことはしないと云ってやりたい。慰めてやりたい。だが、そのひまにも滝の指は力を加えてゆくのだ。  その細い首に指をがっしりと食いこませてゆく圧倒的な欲望に滝は灼かれ、克てなかった。彼は恐ろしくたけりたっている自分の肉を感じた。良は喘ぐような音を立て、かろうじて手をあげて、滝の指をひきはがそうとした。なんとか、さえぎられた呼吸を戻そうと、渾身の力をこめる。  しかし良には滝の手をゆるめることすらできなかった。良の頬が、それから顔全体が充血して真赤になり、かすかにしゃくりあげるような声が出た。それからふいに、さいごまで信じかねて滝をひたすら見つめていた目の上に、青みがかった瞼がおりて来、顔がすーっと青ざめてきて、すべての重みが滝の指にかかってきた。  滝の目が見開かれた。やにわに殴りつけられたような衝撃が、彼を覚醒させた。恐ろしい血の味のする欲望がうすれてゆく。彼の指は彼の意志にそむき、それ自体の厳然たる意志によるばかりに、ほっそりした咽喉に鉄の輪のようにはめこまれていた。  滝は必死になって、指をひきはがした。爪がやわらかい肉に食いこんでいて、咽喉のくぼみにはぐるりと赤い痕が捺され、顎の下のところに二つ、少し血のにじんでいる傷ができていた。  滝が手をはなすと同時に良のからだはぐたりとなって倒れ、よこたわり、そのままぴくりとも動かなかった。目は閉じたきり開かず、小さく開いた唇のはたが切れていた。 「良っ!」  滝は絶叫した。彼は何かが頭とからだの中をめちゃくちゃにひっかきまわしているような気がした。なすすべを知らずに彼は苦悶に手をもみしぼり、ひざまずき、良の肩をゆさぶり、頬を叩いた。良は意識を取り戻さなかった。 (殺してしまった! おれは、何をした、何を……)  滝の目が血走っていた。彼は狼狽のあまり、どうしていいかわからなかった。どんなときにも、どんな事態にあっても冷静さを決して失わぬことを誇りにしていた滝俊介が、たとえ目の前で子供が水に溺れていてもビジネスのためならそれを顔色ひとつ変えずに見殺しにできるはずだった彼が、自失し、なにもかもわからず、泣かんばかりに錯乱していた。 (良が死んだ。おれが殺した──そんなことが、そんなばかなことがあろうわけはない)  滝は良のシャツをはだけ、胸に耳を押しつけた。なめらかな胸はあたたかかったが、惑乱した彼の耳にたしかな頼もしい鼓動を伝えては来なかった。 「良──お願いだ、目を開いてくれ……何か云ってくれ。頼む──」  滝は良の頬をさすり、人工呼吸の仕方を思い出そうと躍起になり、ばかのように首をふった。ほんとうに頭の働きが停止してしまったように、思考の作用がすっぽりと欠落し、ひどく緩慢にしか動けぬようだった。なぜだ、と彼はいぶかしんでいた。  子供のように、思いどおりにならぬ成行きが腹立たしかった。なぜこんなことになるのか。なぜ、良はそこによこたわったきり動かぬのだろう。手脚が折れまがって投げ出され、良のきゃしゃなからだは、いつものしなやかな少年らしさ、若い野生の獣の生気と優美とを失って、木で作った、こわれた人形のようにいたいたしく見えた。大きな指の痕を捺した首の細さが、ひどく憐れに見えた。  滝はしぼるような苦悩につきあげられた。彼はどれだけ自分がこの少年を愛しているか、あらゆる恋の甘味と苦味、父親のやさしさと厳しさ、誇らしさと苦笑、すべてのニュアンスをこめて、どれほど深く、激しく愛しているのか、はじめて知ったのだった。  良は全世界とさえかけがえのならぬ唯一つのものだった。良のために、最も卑劣な、最も許されぬことをしろと云われたら、ためらいなく彼はしただろう。良とひきかえに全人類が滅亡から救われるのだということになったら、滝は一瞬も考えることなく、全人類を滅ぼす罪を身にひきうけただろう。良へのむなしい、むくわれるすべもない愛こそ、彼の存在の基礎でありすべてのありかただった。他のすべてのことなど何ものでもなかった。  滝ははじめて心中をえらぶ男女の心を理解した。良が死んだのなら、この手で殺してしまったのなら、この場で、良の屍体におりかさなって、死のう、と彼は思った。  罪のさばきや、世間の慣習のことを、滝は思ったのではなかった。そんなことはどうでもいいことだ。彼が良を追って生命を断つとしたら、それは、良がいないのなら、彼もまた生きていても仕様がないからだった。  良と会うまでの彼のすべての生など、その仕事も、その野心も、その情事も、無、だった。無以下だった。彼はそうプログラミングされた機械のように生き、生活したにすぎなかった。はじめて痩せっぽちの少年に出会い、その光る瞳に目を吸われた瞬間に、彼の生ははじまったのだ。  彼は良を見出し、生み育て、作りあげ、光り輝かせたが、彼もまた良によってはじめて見出され、作り出されたのだった。彼の能力や巧みな手ぎわや、人より抜きん出たすべての力は、良に出会うまでは、その使いみちを知らされぬままに自己を侵食していたにすぎない。  そして、おそくなりすぎぬうちに自らの運命と出会い、そしてそれを知ることのできる幸運な人間は、ましてその運命がたまたまひとりの人間のかたちをしているときには、きわめてまれなのだったし、そして実に無数の人間が、自らの運命を知り得ないばかりにその生と能力とを浪費して、むなしく割りあてをおえてしまい、自分の生は無駄で、正当でないものだったという痛切な思いだけに見送られていやいや追いたてられていかねばならないのだった。  良は滝の運命であり、使命であり、作品であり、恋人であり、すべてだった。この十八の、光る目と少女のような口もとの、我儘な手に負えない、一筋縄でゆかぬ少年が、滝のすべてだったのだ。  時に憎み反撥しあいながら、その憎悪や反感すらもふたりを他から切りはなして、ふたりだけの異次元の、閉じた濃密な空間にぬりこめる特別なモルタルでしかなかった。滝がその無垢なからだを犯して、堕しても、誰かに高価な人形として売っても、わるいやつ、嘘つきな、たちのよくない魔物と認めても──良はいよいよ滝を捕え呪縛してゆくのだった。  滝は愚かだった。ミミのことはいい。それは云わぬとしてさえ、なぜ彼は、良の足下にひざまずき、その歓心をかい、その足を舐めることを恐れたりしたのだろう? かれの生命は良のためにあるのではなかったのか? 滝をとらえた抵抗など、良という美神の前で、自らをなんとかとりまとめようとする、世にもつまらぬ片意地、頑固で盲目同様のささいな意地にすぎなかった。  良に灼きつくされる、という恐怖とともに、じぶんは滝俊介だ、という、一介の小僧になど、という自恃でもあったとすれば、なおいっそう、彼は赦しがたかった。良の一片の微笑の前にすら、彼などとるにたりぬものでしかなかった。もし彼が──  滝はふいにぎょっとして目をあげ、深い夢の底のような物思いからさめた。腕の中で、しっかりと抱きしめていた少年のからだが、動いたような気がしたのだ。  彼はやにわにほんとうには信じきれないでいた絶望と虚無から、燃えるような激烈な歓喜にとびうつりながら、少年の名を呼んだ。再び、少年をゆすぶり、頬を平手で叩き、胸を撫でさすり、呼吸をよびもどそうとする全行程をおりかえした。良はぐったりと血の気もなくよこたわったまま、息をふきかえすきざしもみせなかったが、胸に耳を押しつけたとき、はばまれていた血液の循環がおずおずと再開されて、胸の深いところで弱々しく震えるような動悸が打ちはじめるのを、たしかにきいた、と滝は思った。  滝は血走った目でまわりを見まわし、そしてふいにとびあがった。医者だ、と彼は思いついた。すぐに医者にみせれば、とりとめるかもしれない。きっと、仮死におちいっただけなのかもしれない。すぐに呼んでこなければならない。  滝は、良を抱きあげようとし、思い直して良をベッドにおろし、走り出た。すぐ近所に、懇意にしている開業医がある。行って、連れてくれば、みてくれるだろう。とっさのおもわくは、ことがスキャンダルになるのをはばかる方へ働いた。それだけ、頭の回転と落着きがもとに戻ってきたのかもしれなかったし、それともそれはマネージャー族の宿業ともいうべき心の動き方であったかもしれなかった。彼は良の方を見やり、扉をしめて、エレベーターを待ちかねて、階段を、一階のガレージまでかけおりた。  行って、医者を拝み倒し、まだ診療時間が少し残っているとしぶるのをほとんど力ずくで車に乗せて、戻ってくるまでに、ものの二十分とはかからなかったはずである。  医者の手をひきずるようにして階段をかけあがり、三階まで走りとおした滝はしかし上りはなに棒立ちになった。部屋のドアがあけはなしになっていた。しめたはずだ、と記憶をたどった。  急にうろたえて、彼は医者をおいてかけこんだ。ベッドは空っぽだった。寝室の戸も、すべてあけはなされたまま、良の靴がひとつなかった。  乱れた室内やくしゃくしゃの布団の上に、すでに、灯もなしの晩秋の宵闇がせまりはじめており、あけはなった窓の外にちかちかと広告が点滅した。滝はばかのように、いないにきまっている家の中を、バス・ルームから押入、タンスまでのぞいてみた。それから外に出て、医師をつかまえた。 「済みませんがちょっとここにいて下さい」  室に押しこんでおき、また階段をかけおりる。エレベーターは一階にとまったきりで開いていた。彼は、マンションの向いのビルの一階にささやかな店を出している、煙草屋に走った。  店番の中老の女は、ひどく良に興味を持っているのを知っている。女は彼が口を開くよりさきに用件を察していた。 「今西さんでしょう。やっぱり何かあったんですね。さっき出て見えたから、お呼びしたんですけど、きこえないようで行っちまいましたよ。なんだか恐ろしく顔が青くって病気みたいで──一歩あるくたんびに倒れそうになって、見ていたらいっぺんなんてそこの壁にもたれてね──どうしたんだろうと思って、あなたにきいてみようかと思ってたんですがね──ええ、あっちへ行きましたけど、バスにゃ乗らないでもっとずっと。そうですねえ、ほんのちょっと前だけど、ねえ、一体全体何があったんですか?」  滝は叫び出したいのをこらえて、ポケットをさぐり、五千円出して、ハイライトを二つ買った。 「お釣りはどうぞとっといて下さい。いえね、ちょっと具合がわるいんですよ。真面目な子でしてね、ものごとを苦にするたちだもんで、病気なのにまあ、どうしても行くんだとか云いまして──医者を連れてくるあいだに逃げ出したんですよ。注射が怖いんです。子供ですね」  滝の口調は平静で、口辺には微笑さえただよっていた。そんな自分を滝は憎悪した。煙草屋の店番がしきりに何やら感心しているのをおいて、かけだしたいのを我慢してさし示された方へ速足で歩き出した。が、角をまがるなりかけだした。あたりはすっかり暗くなっており、どこにも良の姿はなかった。  頭の上に高速道路がのびており、それをすかして都心の点きはじめたイルミネーションが見える。どのビルも窓に灯が入り、道には人の姿もいくぶん少なくなっていた。彼は少し走って、学校帰りらしい少女をつかまえ、いま白いシャツとジーンズの、病人みたいによろよろしている男の子がこっちへ来なかったか、ときいてみた。 「さあ、来なかったみたいよ」 「変なことをきくようだけど、今西良って知ってる?」 「ジョニー? 大ファンよ。なんで」 「見ればすぐわかる?」 「どんな恰好してたって。この近くだから、いつも行き帰りに会いやしないかきょろきょろしてるわ。おじさん何する人? ジョニーどうかしたの。ねえ、まさか『テレビでドッキリ』じゃないでしょうね」  それは通行人にいたずらをしかけて、その驚くようすをカメラにおさめる、一時話題をまいた番組の名である。滝は苦笑して少女を放免した。 「ぼくは記者でね。ちょっとしたアンケートさ」  少女をはなして、角を二つまがって見、戻って見、路地をのぞき、煙草屋が嘘を云った場合も考えて、ぐるりとまわって戻って見、それから、これは最も緊急な事態になったと結論してマンションに戻った。興味津々らしく煙草屋が見つかりましたかときいてきた。滝は安心させるように笑いかえした。 「ええ、もうすっかりいいんです。係の人に預けてきました。まったく仕様のない奴ですよ、松本先生にムダ足踏ませちゃって」  三階に戻り、医者に往診料だといって一封つつんで、口どめを頼んだ。三拝九拝して医者を帰してから、電話をかけて、渡辺と杉田に心あたりをさがすよう頼んだ。 「まだ社長には伏せといてくれ。いいんだ、一切の責任はおれがとる。タイム・リミットは明日の十二時半、TVCの3スタ入りまでだから、まだたっぷり時間はあるさ。わかったか、すぐ行ってくれ。いいね──おれか。おれはいちばん|くさ《ヽヽ》いところへ行ってみる。「みゆき御殿」と山下に会う、うん、電話じゃとうてい──ごまかされたらそれまでだ。二時間したらまたうちへ連絡するのを忘れんでくれ。いいな、必ずだ。信頼できる奴がいたら、分担してもいいが、何があってもひとこともブン屋にゃかぎつけさすな。いいか──おれの頼みだ。じゃ、八時半に電話してくれ。じゃあな」  電話を切り、すぐに行動を起さねばならぬことがわかっていながら、しばらくのあいだ滝は呆然としていた。すべてが、悪い夢のような気がする。傷つき、打ちのめされて、一体良はどこへ行ったのか。どこへ行くあてがあるというのか。滝は顔を両手に埋めて呻き声をあげた。 [#改ページ]     18 「ねえねえ、ちょっと見てよ。あの人」 「ああ? 何だよ、どうかしたのかよ」 「ジョニーじゃない? ううん、似てるわよオ」 「今西良? まっさかあ、こんなとこで──ふーん、そういや、似てっけどさ、まさかあ──ラリってるじゃんか」 「病気かねえ」 「|シンナー《アンパン》でもやってんじゃねえの。よしなよ、あんまりじろじろ見るの。因縁つけられっからさ」 「そうねえ、まさかジョニーみたいなスターなら、もうひとりで出歩いたりしないよね。でも似てんなあ」 「そっくりショーはおわりだぜ。ちぇ、お前、ジョニー、ジョニーって、奴のファンかよ」 「だって可愛いじゃん」 「ちぇ、よせよあんなの」 「あ、嫉いてんだ」 「嫉くう? ばか云え、オカチメンコ、誰がてめえみてえな──ちぇ、行こ行こ」  通りすがりの若い二人連れの囁きを、ひどく遠いところからの意味のとれぬ風の音のように、ぼんやりと良は耳にしていた。いま何時なのだろう。良は時計を持っていない。それに何時であろうとかまいはしなかった。何もかもどうでもかまわなかった。  ここはどこなのだろう。新宿か、渋谷か、赤坂か。それも何だってかまいやしない。良の世界は崩壊してしまっていた。世界が滅亡してしまっても、まだ、時刻だとか、場所だとかに、何かの意味があるものだろうか? 良には、わからなかった。  もう長いこと、どのぐらいか、それもわからない。長いこと良はふらふらとさまよっていた。金もないので、乗物にも乗れぬまま、手当りしだいに路地をまがり、どんどん歩いた。ときどき目の前が暗くなって、何かの壁にもたれて休まないと歩けなかったが、まるで足をとめたら死んでしまうというように、かりたてられて、良は歩いた。  手首がずきずきといたみ、頭が割れそうにいたく、何も考えられなかった。さいごのことだけは、むしろ歓迎すべきことだった。良にはもう、考えること、考えたいこと、考えなければならぬことなど、何ひとつ残っていなかった。ついでに、感じることもなくなってしまえば、この胸の中の、わけのわからぬにぶい、しかし耐えがたく圧迫してくるいたみもなくなってしまえばよいのだ。  脈絡のなくなった時間のどこかで、良は川の水を飲んでいた。死んでやる、死んでやる、と良のなかの何かが云った。面当てに、死んでやる、良は水のにぶいたゆたいを見下ろしてくりかえした。そんなに滝が良を憎ければ、死んでやるのだ。あとで泣いたって──だが、そのとき誰かが近づいてきて、良はあわてて逃げた。  良は手負いの獣だった。獣はひとを恐れる。どこへ行っても、どの角をまがっても、ひとがおり、ひとの生活があった。それが良はむしょうに腹立たしかった。なんだって、こんな世界にはたくさん人がいるのだろう? 良は誰もいないところへ行きたかった。正体を知られるのを恐れたわけではなかった。いまの良は、自分がスターであること、大賞歌手のジョニーであることなど、まったく忘れていたからだ。人々も、ためらい、いぶかしんだが、結局、白いシャツとジーンズの髪の長い、やつれた顔に何か死相めいた影を漂わせたこの少年に近寄っては来なかった。  不吉なバリヤーが、良を守っていた。良を輝かせ、いやが上にもぬきんでてみせるスターの香気、美神の、アイドルの後光に似たオーラのきらめきのかわりに、それはこの少年をつつんで翳の中にとざしていた。  いま、良は何ものでもなかった。しいて自らを何ものであるかと問うならば、良は、母にすてられた子供、この世界のどこにも行き場のない、愛も庇護も失った世にも憐れな孤児でしかなかった。良はそれを直視することができなかった。良は、自分が何であるのか問わなかった。それゆえに、良は何ものでもなく、安らわぬ浮遊霊のように、或は家路に、或は友と歓楽に急ぐ人々のあいだをさまよいつづけた。  ただひとりの人、天にも地にもたったひとりの母親に裏切られ、打たれ、見はなされた子供の、どんなものも癒すことのできぬ悲痛な慟哭が良をとらえていた。良の細い首すじにも、背中にも、ときどきぼんやりと何も知覚せぬままに見まわす顔にも、叱られた子供の憐れな涙がひそんでいた。重い、窒息せんばかりなかたまりが胸につかえ、脳を圧しつけ、意識を混濁させていた。  良の目に見えるのはただひとつのものだけだった。一生、消し去ることのできぬものだった。滝の目──良をのぞきこみ、黄色くきらめいた、まぎれようのない憎しみと殺意に燃えた滝の目だ。  滝は、自分のしたことがどれほど取りかえしがつかないことか、どれほど、最も不幸な時を選んでなされてしまったか、おそらく想像もつかなかっただろう。それは、山下の反逆と、清の乱暴からいくらもたっていなかった。  良がばかにしきって、安心しきって自らの主権を信じていた人々が、次々に牙をむいてとびかかってきた。良の主権は、ひそかな黙契にかかっており、ひとたび奴隷が牙をむいたがさいご、嘘のようにもろくくずれ去ってしまう種類のものだった。  良の力は、かれの奴隷たちが、その高貴なあるじに手をかけてひき裂こうとこころみることを知らぬあいだしか、有効ではなかった。良のひそめているもろさと高慢さはそれぞれむすびあっていた。だが、そんなことは良はかまわなかったろう──滝さえいれば。  滝さえ、しっかりと良を抱きとめ、守っていれば、すべてはよくなるのだった。滝は良の、欠けている分の半身だった。力と狡智と確実さで、彼は良を補い守っていた。山下が牙をむこうと、清がおそいかかってこようと、良のデウス・エクス・マキナはきっとあらわれて、すべてよくしてくれた。  良はただ滝の胸に逃げこんで顔を伏せていればいいのだった。滝の大きな力強い手が髪を撫で、たくみに傷を手当し、布団を叩き、滝のききなれた声が良を安らわせ眠らせる呪文を、ここにおれがいる、いつでも良のことを考えている、どこにも行かない、そう囁きつづけた。そして、目をさませばきっとすべての厄介ごとはおわっており、良は滝の云うとおりに動きさえすれば、すべてただうまくいき、順調に自分がスターになり、栄光につつまれるのを、見てさえいればよかったのだ。  そのまかせきった安らかな思いは、親の愛を知らぬ良にとっては父であり母であり神であり、夫でもあるような、すべての信頼を滝の上にあつめさせるものだった。滝がいるかぎり良は何ひとつこわいものはなかった。何ひとつ──何も良を傷つけることのできるものはない。良を滝からひきはなそうとするものはない。滝はいつも良のそばにいて、良のことだけを考えている、はずだったのだ。  そこに、裏切りが来た。それを直視することは、良にとってすべてを失うことであり、といって、見ぬわけにはいかぬほど深くくいこんでくるような、それは鉄槌と化して良を打ちのめす衝撃だった。滝の目に殺意を見たこと──そしてそれをミミのための怒りだと信じたことが、この愛に飢えたあまりに無感動にすら見えていた少年の上にさいごの打撃となった。  かれにとってすべてであるはずの庇護者の心は、よその女の上にあった。自分の女のために、彼は良の首に手をかけた。良はそう信じたし、なによりも苦しい、いたましいことはその上にあった。殺意ですら、良への愛ゆえであったら、山下の殺意とちがって、恐怖しても、あらがおうとも、良はそれに打ちのめされはしなかっただろう。  良は常に滝の心のあかしを欲しがって目を光らせていた。どんなきざしでも良は貪欲に呑みこみ、さいげんもなくもっと欲しがった。だが、──良のためではなかった! 滝の妻──その考えは、良には耐えがたかった。良は、不充分な供物、余り物の生贄など欲してはいなかった。  良は、このまま苦痛もなく死んでしまえたら、いや、いっそ、あのまま意識を取り戻さないでいたらよかったのだと思った。一歩踏み出すごとに膝がゴムでできているようにぐにゃぐにゃした。頭は割れそうにがんがんした。泣きわめきでもできたらまだ楽なのだが、良の唇は縫われたように封じられていた。涙の出口も縫いこめられていた。  何かが恐ろしくまちがってしまって、もうどうにもならないのだ。この世界は恐ろしいひとつの巨大な欠落、太陽のなくなってしまったあとの荒涼とした長い夜だった。呼ぶべき名、身を預けるべき胸がなくては、生きていくことは、できそうにもなかった。悲痛の激流が良を呑みこもうとしていた。そしてそれは来た。 (みんなが、ぼくを苛めるんだ。みんなが──滝さんがぼくを殺そうとした……)  良は、遠くで、かすかに自分の名が呼ばれるのをきいたように思った。しかし、もう、頭の中のとどろきは狂うばかりに激しくなり、真黒な激流は良に押し寄せていた。良は膝ががくりとくだけ、奇妙なゆるやかなしぐさで道路に倒れこんでいった。激しい急ブレーキの音も、逞しい二本の腕が、あやうく頭をアスファルトに打ちつける直前に良の首の下にさしこまれたことも、もう良は知らなかった。そして暗黒が来た。  車の動揺が、良の意識を取り戻させた。おそらく、実際に気を失っていたのは、ごく短い時間だったのだろう。  瞬間、良は自分がどうしたのか、まるでわからずにあたりを見まわした。 「脳貧血だよ」  深みのある声が云った。同時に力強い手が良をささえて上体を起させた。良はツイードにつつまれた膝に頭をのせていたのである。目の焦点が合ってくると、良はそこに、街の灯りと車のライトで照らし出された、彫像のような男の横顔を見た。細い貴族的な鼻梁がみごとな線を描いていた。  男はこちらをむいた。比類ない美しい顔立が見わけられた。といっても、その顔には、これっぽっちの女性的なところもなかった。  どこか外人めいた顔である。輪郭がはっきりしていて、力強い顎の線、秀麗な額の線、いくぶん皮肉そうな茶色の目、濃い、まっすぐな眉、非の打ちどころのない男性的な容貌と云えた。高い細い鼻の下に、手入れのゆき届いた口髭がたくわえられて、この端正で精悍な気品のある顔にさいごの仕上げをしていた。  がっしりした首が、純白の衿につつまれており、狭そうにメルセデス・ベンツの運転席におさまっている長身はツイードのブレザーと濃茶のズボンにつつまれていた。 「少しは、気分がいい? それとも、どこかでとめて、何か飲んだ方がいいかな。怪我をしているようだね」  結城の声には、何の敵意も皮肉も感じられなかった。それのみか、やさしくいたわるような、ふわりとつつみこむひびきがあったが、良は急に激しく身動きした。 「とめて下さい」 「どうするの」  結城はさからわずに車を歩道に寄せながらきいた。 「もうそろそろ十時すぎだ。新宿といってもこのへんははずれだ、ひとりじゃ危ないよ」 「ぼくは子供じゃありません」 「そうか」  結城修二はからかうように良を見つめた。いつも、良をかっとさせ、反抗させる目付である。 「じゃ、もう、僕がしてあげることはない、これだけで充分だっていうわけだね。青い顔をしているよ、良くん──どこか行くさきがあれば、別に急ぎじゃないから、送ってあげるがね。云ってごらん」  結城は車をとめたまま、ドアをあけようとのばした良の手を、なにげなくつかんで押さえた。 「熱い」  彼は呟いた。と思うと、大きな手が額にきた。 「熱があるよ。医者にみてもらった方がいい。寒けは、しないかね」  良は答えなかった。頭がふらふらして、何も考えられなかったのだ。ただ自分がこの美男の作曲家を、どうしてかはもう忘れてしまったが、ひどく嫌っていたのだということ、こんなところにいたくないということしか、思いつかなかった。  良は手をもぎはなし、ドアをあけたが、おりないうちにふらっとして、倒れこんでしまった。結城の手がぐいとうしろからつかまえてくれなかったら車道に倒れるところだった。車にひっぱりこまれ、ドアがしまり、走り出した。 「危いじゃないか」  ものやわらかな叱責の調子で結城は云った。 「さあ、云いたまえ、送ってあげる。どこへ行くつもりだったの? 付人も、マネージャーも、誰もいないのか。王子様、お忍びの図か?」 「そんなんじゃありません」  良はかすれた声で云った。夢の中でもうひとりの自分が何か云ったり、考えたりしているのを上から見ているように、現実感が欠落していた。 「あなたにはわかんないんだ。おろしてよ──ぼくは、もう、どうなったっていいんだから──どこにも行くところなんてないんだから……放っといて下さい」 「驚いたな。何があったんだね──うん、血が滲んでるじゃないか?」  結城の指が、包帯をした左手をぐいとつかみ、良はいたみに小さな声をあげて、それで少し我にかえった。 「細い手だね」  結城は呟いた。 「一体、どうしたんだ──いや、別にきこうとも思わないが、話したくなけりゃ──それより、どうするつもりだったんだね。放っておいたら、身投げでもしそうなようすじゃないか。滝さんはどうしたの」 「滝──」  瞬間、それが誰なのか、良は思い出せなかった。ふいに良の口から嗚咽が洩れた。結城が車をとめた。 「落着くんだよ。話してごらん。滝さんが、どうかしたのかね」  良は答えなかった。ただ、目をつぶり、稚い子供のように、憐れな涙を頬につたわらせて嗚咽していた。突然、良のからだがはねかえり、結城の胸にとびついた。ほとんど、本能的な動きだった。結城ははねつけず、腕をまわして抱きとめた。目が細くなり、強い光をひそめていた。 「何か、あったんだな」  彼は呟き、ほっそりした、熱いからだを抱きよせ、あやすように背中を撫でた。良の涙がワイシャツの胸にしみとおる。結城の胸はツイードと、香りたかい外国煙草と、ほのかな高価なオー・デ・コロンの匂いがした。良は一切の自制心を忘れてしゃくりあげた。ひたすらな、見すてられた子供の悲しみが全身からほとばしるようだった。結城は、たしかに、それを見てとった。 「泣くなよ、坊や」  彼はやさしい、深い快い声でなだめた。それから、かるく指をかけて、良の顔をもちあげ、のぞきこんだ。ぎゅっと目をつぶった顔は稚い泣き顔をしていて、涙に濡れて、憐れなようすをしていた。  ふいに、結城の目が、何かつらぬくような光を出した。彼ははっとしたように、良を見つめて眉をひそめた。それから彼はゆっくりと緊張をといて、ハンカチを出し、涙をふいてやった。 「さあ、泣くなよ、どうしたっていうんだ、坊や? きみは、まだネンネなんだな? 何も云わないなら、きみを、おれの家へ連れて行くが、かまわんかね? ずっとこうして走ってるわけにはいかないし、きみのようすを見ると、どうも、滝マネのところへは、帰りたくなさそうだね」  良は激しくかぶりをふり、結城にしがみついた。 「殺される──」  良はかすれた声で云った。結城は良の怯えを見て、その意味を知り、ひどく驚いたようだった。それきりもう何も云わずに、良をそっとひきはなし、車を出す。良は嗚咽をこらえようとしながら、そっと目をしばたたいて、となりの男を見上げた。  端正な横顔は、もう良の存在を忘れたように、ベンツの運転に没頭しているように見える。しかし、その彫刻像のような無表情の下で、鋭い頭脳が適正な速度でもってかちっ、かちっ、と動きつづけている、そんな気が良はした。同時に、あらためて、この美貌で瀟洒な、御曹子のすべて恵まれた星の下に生まれた作曲家が、いつだって自分を値打ちのない、しかしちょっと興味のある虫けらであるように、面白そうな、少し皮肉な目をくれたり、ひやかすようにしか眺めないのだ、ということを思い出した。  しかし、もう、鋭く反撥したり、心を燃やすだけの力も、良は残っていなかった。そのとき、頭をまっすぐにしたまま、結城が口を開いた。 「ひどく、参ってるようだね、辛そうだ。よかったら、僕の肩にもたれているといい」  同時にしっかりした手がのびて、良の頭をかかえよせ、厚みのある肩にもたれさせた。相手が自分の意にさからおうなどと、考えてもみないような、自然な威厳に満ちたしぐさだった。良は一切、脈絡をたてて考えようとする努力をあきらめた。  結局、何もかもどうだってかまいやしないのだ、というこころよい放縦さが、疲れはて、打ちひしがれた少年の投げやりな心に忍びよってきた。それに身をまかせ、良は目を閉じ、いつのまにか前後不覚におちいってしまった。  気がつくと、車はとまっており、やさしくゆり起されていた。 「着いたよ。歩けるかね、それとも、抱いていってあげようか?」  太い腕が、ひょいと脇の下と膝にまわり、かかえあげた。 「おやおや、軽いな」  結城の口調はほのかな揶揄をはらんだ。 「きみは五十キロ、あるかね。どうも、なさそうだな──きみは、もっと太らないとだめだね」 「おろして下さい」  良は羞恥に頬をあつくして抗議した。結城はすぐに手をはなし、片手をかるくそえるだけにした。 「めまいがしたら、つかまりなさい」  彼はやさしく云い、ドアをあけた。良の気分はなんとか回復していた。少なくとも、周囲への好奇心が動き出すくらいには、回復していた。良は入りながら目を丸くして、話にだけきいていた彼の、全ミュージシャン垂涎の的だというスタジオつきの独居を眺めまわした。  してみると、ここはだいぶ武蔵野の方へ来ているはずである。結城がスイッチをいれると、豪華で快適そうな居間のたたずまいが、強烈な明るさの下に照らし出された。結城の厳密な好みが室中、おそらくは家じゅうを支配していることは、良にもひと目でわかるような室だった。  それは機能と、簡素さと、品のよさと、贅沢さの、矛盾のない結合だった。壁は白木づくりで、まるで新築したてのように清潔で、木の切り口の匂いがしそうだった。床は寄木細工だ。  結城はその白と茶色の空間に、素晴しい巨大なステレオ装置とレコード・コレクション、コーヒーのパーコレイターや酒のセット、あっさりした家具に大きなストーブなどで、ひどく機能的な、そのくせゆたかな趣味を感じさせる雰囲気を作り出していた。どこにも装飾がなく、いってみればすべてが装飾だった。  皮張りの椅子の上の上着や、テーブルに出しっぱなしの、書きかけの楽譜、読みさしの本、などまでが、その効果をはかっておいてあるようにみごとな乱雑な調和を生み出していた。結城は上着をぬぎ、良にくつろぐように云い、あれこれ動きまわりはじめたが、長身で逞しい結城の姿はぴったりとこの室に溶けこみ、いわばこの室を上等の部屋着のように着こんでいた。 「ちょっと待っていたまえ。楽にして」  コーヒーをわかしかけたまま、ドアをあけて、結城は姿を消したが、しばらくしてあらわれたときには、手に盆を持っていた。盆には濃い黄色いバターをそえたライ麦のパンと、茶色の深皿に入れたあついシチュー、それに林檎と生クリームの容物などがのっていた。結城はそれを良の前におくと、コーヒー・カップにコーヒーをつぎわけ、自分のには緑色のビンからブランデーを入れた。 「きみは?」  良は首をふった。 「ぼく──何も……食べられません。欲しくないんです。咽喉がつかえて──済みません」 「だめだな、その顔、どんな顔してるか、わかっているのかね。目がくぼんでいるよ。食べられないどころか、うんと食う必要がある。さあ、パンをとって、バターをぬって──しょうのない子だな……どうした」  とたんに良のおさまっていたはずの涙がどっとせきをきってきたので、結城も驚いたようだったが、良の方も少なからず驚いていた。そして、彼のよこしたハンカチで顔をふきながらようやく気づいた。結城のなにげなく云った、(しょうのない子だな)というひとこと、苦笑するような、揶揄するような、愛情深いイントネーションの中に、滝がいたのだ。良は、いまさらのように、自分をすてた母親を恨む幼児のすべての恨みをこめて滝を憎んだ。 「コーヒーを飲みなさい」  結城が云った。しゃくりあげながら、良は、云われるとおりにしている自分に気づいて、また少し驚いた。結城は、声を激しくも、荒らげも、大きくさえせずに、相手に命令をきかせるすべをこころえていた。それはおそらく生来のものだった。 「少しでいいから、食ってごらん、腹が減ってるのがわかるから」  結城は云い、良は云われるとおりにしたが、いやいやだったのははじめだけだった。すぐに、良は飢死しかけた人のような勢いで食べはじめ、しゃくりあげるのが遠のいた。  結城は目もとに笑いをうかべて見守っていた。深い光を帯びた目が細められ、くっきりとわかる笑い皺に埋もれた。わけもなく彼に反感を持っていた良ではあるが、ちらちらと見て、その笑い顔が放射してくるなんともいえない魅力、ぬくもりを太陽のようにふんだんにまきちらす磁力に気づかぬわけにはいかなかった。良はくつろぎはじめた。庇護され、気にかけられているという気持が、嘘のように良の悲哀を吸い取りつつあった。 「そうだよ、若いものは食わなくちゃ」  結城はコーヒーよりブランデーの方を多く入れたカップを口にもっていきながら満足そうに云った。 「きみは、痩せすぎだ。首なんて、僕の片手でひと握りにできそうだし、筋肉なんてこれっぽっちもなさそうじゃないか。きみは女のコみたいだな──泣いたり、おさまったりも、女のコみたいだよ。まあ──それが、きみの特別なところだっていうのも、わからなくはないけれどね」  良は黙りこんでいた。いったん、気持が落着き、体力が回復しはじめると、結城に対する気持が動きはじめた。前のように、いちずに嫌いだとは思えなくなっていたが、結城はなんとなく、良を不安にさせた。くつろいではいたが、からかわれているのではないか、皮肉に見られているのではないか、という懸念が抜けないのである。 「寒くないかね。──そんなシャツ一枚でさ。僕のセーターを貸そうかね。まあ、だぶだぶだろうが。──いいか。コーヒーをもう一杯? どうした、借りてきた猫だな。きみはいつもそんなにおとなしいの?」  結城の語調は妙に良を焦々させる。そのくせ、なごんだやさしい目を見ると、その焦々がふわっと抱きとられてしまうような気がするのだ。良は食事をおえて、礼を云った。 「いいさ、いつも、ここにはたくさん、若い人が来るんだ。連中は、食えないとなると、ころげこんで来るのさ。面白い奴がいるよ、フリー・ジャズとニュー・ロックの連中が鉢合せしたり、映キチと新劇屋がぶつかったりすると、面白い、大論争になるよ。夜どおし唾をとばしてる。こんな、誰もいないことは珍しいんだが──僕がしばらく留守にしてたから、奴ら、別の巣を見つけて荒しているんだろう」  結城は屈託のない、若々しい笑い声を立てた。 「時にはこの床にまでスリーピング・バッグを持ち出して寝てるよ。そういえば、きみは、熱はどうした──いくらか、顔色は戻ったようだがな。もともと、そんなに白かったっけ──貧血質だな。若いくせに、本気で身体を鍛えないと、参っちまうよ。やれビデオだ、やれかけもちだって、不健康な生活をしてるんだろう?──きくまでもないさ、あの芸能人連中ときたら──情けない奴らだよ。きみは二郎やまさみと共演することがあるだろう。奴らの肌を見たことがあるかね、ドーラン焼けして、そいつを落すと、魚の腹みたいに真白なんだ。きみみたいな、色白っていう白さじゃない、長いこと日の目を見ない死人の水ぶくれみたいな白さだよ。それでいつだってまた、やれポリープだ、やれヘルニアだって騒ぎ──きみは、あんなになっちゃ、いけない。まあ、どうせなりかけてるんだろうがね。きみ、その咽喉どうした?」  結城に気をとられかけていた良は、はっとうろたえて手を首にやった。 「済まん」  結城は良の顔色の変るのを見て、云った。 「心ないことをしたな──せっかく、まぎれてたのに。いいんだ、何も云わなくていい──きみは、ひどく参ってるね。自分じゃ気がついてないのかもしれないが、いまにも倒れそうだ。こっちへ来なさい」  結城は良の腕をとり、ドアをあけ、キチンをぬけて、奥に連れて行った。床までびろうどのカーテンが垂れさがっている、毛脚の長いじゅうたんも、壁も、カーテンも茶系統の、豪奢な寝室だった。胡桃材の、何の飾りもない大きなベッドには、しみひとつない純白のシーツと枕があった。ベッドの脇には、ちょっとした本棚と、酒の用意、それにステレオ・セットがある。 「どの部屋でも音楽浸りでいられるのが、僕のささやかな贅沢ってわけだ。もちろん、防音設備にはうんと注意したがね」  結城はこともなげに説明した。新しい、青いパジャマを出してきて渡す。 「着更えなさい。僕がここにいるからって、恥ずかしいことはないだろうね? 僕は、云っとくが、いまは、別につまらん下心は持ってないよ。いずれ持つかもしれないが」  結城は笑った。良は赤くなるかわりに、青ざめた。黙りこんで着更える。一八〇以上はある結城に合わせたパジャマは、良には相当大きかった。良がベッドにもぐりこむと、布団を肩までひきあげてやって、結城はかるく手を額にのせた。 「まだ少しあつい。一応、冷やしてあげよう。眠れそうかね? 何か、飲むものがいるか?」 「いいえ……」 「怪我してるようだから、破傷風の徴候でも出てきたら、それこそえらいことだと思っていたが、この分だと、その熱じゃなさそうだな。ショックか──きみなんか、神経の方も見かけどおり細いんだろうな。そんな顔してるよ──失礼」  良が怒って黙りこんでいるのを見下ろして結城は笑い、洗面器に水と氷を入れてきてタオルをしぼった。 「ぼく──大丈夫です。病気じゃありません」 「云うとおりにするんだ。──ここは僕の帝国だ。独裁者は、僕だよ、治外法権成立せずだ。よしよし、目をつぶって。きみなんか、おそらく、きみの帝国ではいいように君臨してたんだろうね。わかるよ──だが、もうだめだな、ここでは──僕がきみをつかまえたから、もう放さないって云ったら、どうする?」  良は驚いて目を開いた。おびやかされつづけて、臆病になった小鳥のような目で、男を見あげる。結城の目が、するどい光を出していた。瞬時にしかしその光は消え、彼は安心させるように笑い出した。 「冗談だよ、冗談。──ところでねえ、良くん、もうこれ以上苛めないでゆっくり休ませてあげる前にひとつだけ質問だ。僕はこうして、まんまときみを誘拐しちまったが、身代金を請求してもかまわんのかね? きみのおっかないマネージャーは、それこそ気狂いみたいになってさがしまわってると思うよ。きみが無断外泊をやらかしてるんだってことは、賭けてもいい。──きみはたしか、いまトップ・クラスの売れっ子だったな。明日だって、仕事が待ってるんじゃないのかね? 仕事に穴をあけるのは、プロとして最低だぞ?」 「ぼく──」  良は目をしばたたき、涙をこらえようとした。さきのことなど──仕事も、滝も、何もかも、忘れたかった。 「ぼく──」 「どうした、ぼく?」 「ど──どうなってもいいんです。もう何がどうなったって──み……みんなが、ぼくなんか死──死んじゃえばいいと思ってるんだから! ぼくなんか──もう、帰らない方がいいんです」 「何を云ってる。いったい、どうするつもり?」 「わからない──わかんないけど……もう……」 「よし、よし、泣くなよ、きみに泣かれると閉口だ。なんだかきみの泣き方は、ばかに可哀そうで、見ていて胸が苦しくなるよ」  かるい口調で結城は云い、しぼったタオルを額から目の上にのせた。 「きみだって十七か八にはなってるんだろう? 自分のことは、自分でしていい年だが──とにかくひと晩休んで、落着きたまえ。そのかわり、明日になったら、しゃんとするんだよ? いいね、僕は赤ん坊のお守りは苦手なんだ。うちには十七、八の子もよく遊びに来るが、きみみたいな甘ったれは見たことがないぜ──ああ、わるかった、わるかった。じゃ、お休み。よく寝られるおまじないをしてあげようかね」  結城はタオルの上から良の目に手をのせた。と思うと、ふいに、結城の唇が、良の唇にふわりとかさなり、すばやくはなれた。口髭の感触も一瞬だった。良が驚いて動けずにいるうちに、彼は立ちあがって、室を出ていた。寝室のドアがしまり、真暗になった。  居間に戻ってきた結城の表情が変っていた。きびしいひきしまった、何事も見逃さぬ鷲を思わせる顔付きになっていた。彼は煙草を一服するあいだじっと何か考えていたが、それからケントをすて、電話に手をのばした。彼のまわしたのは、滝のマンションの番号だった。 「もしもし」 「僕だよ、滝さん、結城だ。元気かね、いてくれてよかったよ」 「結城先生ですか!」  滝の声が変った。 「どうも、ご無沙汰ばかりしております。いつもいつも、お世話になりっぱなしでこれというご恩がえしもできませんで、いつも心苦しく思っているんですが……」 「おい、挨拶ぬきだ。もうおそいからね──そろそろ十二時をすぎるだろう。いつもこんなにおそくまで起きてるのかね」 「まあいまごろまでは──」 「済まないね、夜おそく騒がして。しかし、さぞ心配してるだろうと思ってね。滝さん、あなたの大事な落し物、僕がたまたま拾ったよ」 「結城先生!」 「車の前にふらっと出てきて倒れるんだからね。こっちもびっくりした──しかたないから、連れ帰って、寝かしてある。何だかひどく取り乱していて、何かきくとぽろぽろ涙を流すだけで手がつけられないし、それにだいぶ発熱してるんでね。破傷風ってことも考えられる。明日はどこか入ってるのかね」 「TVCの『ヤングポップス』の録画ですが。十二時半です」 「それは、無理だな。かりに起きられてもいい仕事はできないよ。あれなら、長谷チャンだな。あんたから云いにくいなら、僕が口添えしてあげる。わるいことは云わんから、休ませなさいよ。ビデオなら、あの子の分だけあとでとれるだろう」 「それは──先生、そんなにわるいんですか」 「心配かね、滝さん」 「……」 「あの子に、何をしたの? あの子、何だかひどく怯えているよ。折檻かね? あんたのとこへ帰りたくない、殺されるからと云うんだよ。まあうわごとだろうけど──咽喉と、手首に、傷があったね。咽喉の方は、あれはしめたあとだな。あざになってたよ、可哀そうに」 「結城先生」  滝の声が鋭く、低くなった。 「いますぐ、ひきとりにあがらせていただきます。そんなご迷惑をおかけするわけにいきませんので。どうぞ、ご心配下さいませんよう。うかがわしていただいても、よろしいでしょうな」 「あんたにゃ関係ないよ──か」 「先生」 「来ても、いいかと云うんだね? だめだね。滝さん、だめだよ」 「結城先生!」 「今日一晩はとにかく僕が預かった。あの子は、妙に、僕も縁がないでもない子だ。あんなあざがついたり、あんなに怯えさすようなところへ、あれだけ衰弱してるものを、帰すわけにいかないね。明日来たまえ。昼か夕方に──そのとき、あの子が帰ると云えば、むろん僕に異存はない。それこそ口をはさむすじあいはない。もしいやだと云えば──」 「先生、私は良のマネージャーですよ」 「あの子は、帰さないよ」 「先生!」 「僕が見てやって、自分から帰りたいと云い出すまでは泊めておく。僕の欠点がお節介焼だってことは、知ってるだろう? ああいう、神経過敏タイプの子に、暴力をふるったりしない方がいいよ、滝さん──可哀そうだよ」 「先生、良が何か申しましたかね」 「まとまった話どころじゃないと云っただろう。しかし、あんた、さっきからしきりに、あんたなんぞの出る幕じゃない、内輪の事情だってことを言外に匂わせてるが、まんざらそうでもないようだよ。あの話、僕は承知することに決めたんだからね、まだ云ってなかったが」 「あの話──と云いますと、良の次の曲という件で……はあ──お受け下さるんですか?」  滝の声が、結城でなかったらわからぬくらいほのかに、困惑をひそめた。 「ああ、とすれば、僕もこれから良くんとはしょっちゅう会うことになる。関係ないとは云えんだろうな──まあ、取って食っちゃいないから、ご心配なく。|僕は《ヽヽ》、サディストの素質はないんでね──まあ時としてないとは云えんときもあるが──少なくともいまはないんでね。あの子は、ちゃんと帰してやるよ、帰りたがりさえすればね。じゃ、まあ、心配してると思ったから、知らせとこうと思っただけだから──夜分騒がして、済まなかったね」 「待って下さい。先生、結城先生」  電話は切れた。滝はじっと動かずに座っていた。目が光っている。やがて彼は頭をぐっとあげ、獲物を狙う猟師のように目を細くした。眉根が寄り、唇が奇妙な具合にゆがんで、右端だけがひきつるようにあがった。それは、何か、不吉な予兆を読み取りながら、どんなことが起ってきてもそれに適切に対処すべく筋肉をひきしめて身がまえている、どこかに凶暴なものをひそめた急変への対峙の姿勢であった。滝はそうしたまま、長いこと身じろぎひとつしなかった。       * * *  次に目をさましたときには、からだもずっと楽になり、頭もはっきりとしていた。良は幸福そうに布団の中でのびをし、それからここがどこかを思い出し、何があったかを思い出した。良の顔から、かき消されたように昨日までの幸福な信頼の残滓が消え去った。  打たれた子供のような表情を良はし、それから、いつからそうしていたのか、ベッドの傍に立って腕を組んでいる結城が、自分の表情の変化をずっと見守っていたことに気づいて赤くなった。 「気分はよさそうだね」  結城はやさしくなだめるような云い方をした。 「十一時だ。よかったら、もう少し寝ていてもいいよ。さっき滝さんから連絡があった。きょうのきみの『ヤングポップス』のビデオどりは、明日の午前中に6スタにかえたそうだからね。──起きるの? 腹がへってるだろうね」 「滝さんは──何か云ってました?」  良はおずおずときいた。相手は若々しいざっくりしたセーターとふだん用らしいズボンを着ていたが、脚を組んでベッドの端に腰をおろし、首をふった。そんなラフな恰好も、この男にそなわった貴族的な風格を消すには至らなかった。 「洗面所はあっちだ。きみは、朝飯、パンでかまわんのだろうね──どうも、男所帯には、洋風の方が万事かんたんでね。飲物は? 何でもあるよ」 「何でもいいです。ぼく自分でやりますから」 「そうだな、ここでは、ここのやりかたになって貰った方がいい──あれ、きこえるかね」  それはさっきからきこえていた。良の眠りに忍びこんできてさまさせたのも実はそれである。休日に、目をさますと、さきに起きた滝がレコードをかけていることがよくあったので、良は夢うつつでそう思いこんだのだが、いまきくと、それはレコードではなかった。 「今朝方一連隊おしかけてね。いま、スタジオの方でがちゃがちゃやってるよ。知っているかね、ニュー・ウェーブの連中だ。食事を済ませたら、スタジオを見てみる?」  良はひどく興味をそそられてきた。急いで着更えるあいだに、結城がコーヒーと、トーストと玉子料理とサラダを用意しておいてくれた。旺盛な食欲がよみがえっていた。食べている良を、結城は楽しそうに見守った。 「よかったよ、元気になって。きのうのきみは、壊れ物みたいにみえた。今日もしょげていたら、ひとつどやしつけてやるかと思ってたんだが──いくらか血の色が出てきてる。きれいだよ、今朝は」  良は驚いて彼を見た。結城はあの、誰にも抵抗できぬような人なつこい笑いをうかべていた。 「あとは、もうちょっと、目に光が出てくればいい。──きみは、たしか、前に見たときには、もっと生き生きしてたよ。きれいで、一筋縄ではいかなそうで、なかなかどうしてワルな坊やだと思ってたんだが──きのうのきみは、なんだか、はぐれた小鳥みたいだった。だが、あれもきみなんだな。たしかに、きみは見ている価値のある子だね。感情の動きが激しくて鋭い、そのどれも、なかなかわるくない。きみは、僕を、ずけずけ云う図々しい奴だと思うだろうが、勘弁してくれ。僕は、若い連中相手で、何でもあけすけに云いあう癖がついているだけなんだ。コーヒーもういいのかね?」  良はもういいと云ったが、だんだん、いたずらに反撥したり、警戒したりするのが遠のいてくると、結城のからかうような、つつみこむような、生き生きした口調の中に、良の気をひき立ててやろうというあたたかな心づかいを感じとりはじめていた。  結城は良が充分に食事を済ませたのを見ると、スタジオを見せてやろうと云った。 「十二時半に滝マネが来るはずだ。それまでのひまつぶしにね──きみらの知らん世界を見ておくのも、わるくはないだろう」 「滝さんが? ここへ?」 「そう。帰りたくないかね?」  良は答えようとし、ためらい、唇をかんだ。結城はそれ以上その問題にふれずに、良をおもてのスタジオに連れて行った。それは、どんな音楽家でも夢に見るような、ちゃんと調整室、サブ調整までついた本格的なものだった。  水族館のように見下ろしたガラスの中で、長髪の若者たちが、無数のアンプとコードに囲まれて、奇妙にオリエント調の音をひびかせていた。結城はそのドラム・セット、シンセサイザー、アンプ、ピアノなど大きなものは残らず彼のもので、かれらに開放されているのだと説明した。 「ニューウェーブの連中は貧乏だ。僕は、ずいぶん連中のレコードをプロデュースしたし、むろんサウンドが基本だが、それ以上に、ここを拠点にかれらが一つの解放区みたいなものを作れたらと夢見てるんだよ。日本のいわゆる芸能界は、何ひとつ、そういうこと、何が起りつつあるかなんてことを見ようとしないからね。いつまでたっても、同じパターン、営利一辺倒、たまに誰かが|大当り《ジヤツクポツト》を出すとたちまちその猿真似、いまはディスコ、ディスコで安っぽいディスコ・サウンドばかり──別に、きみのせいだとは云わないがね。しかし、良くん、きみなんか、いま若い連中のあいだから起りつつあること──生き方の革命と云ってもいい、ビートルズ革命、ロック・ムーブメント、LSD共同体、いわゆるフリークたちから深く静かにはじまりつつあるそういう動きなんて、知ってるかい? きみは毎日テレビに出て、売れっ子で、歌をくりかえして、ヒットしてるあいだじゅうそれをテープみたいに歌って──ウラ金を使った奴の勝ちで、悪徳ディレクターと悪徳プロの馴れ合いレースで、それを女のコたちがキャーッと云って、きみらアイドルは消耗品で、あきられれば取りかえられて、ぽいとすてられて、そのあいだに、きみらや、きみらを作っている人とまったく関係のないところで、いろんなジャンルでいろんな連中がだんだん、ロックだ、ジャズだ、映画だ、演劇だ、政治革命だとそれぞれやってるうちに、結局すべてはひとつのことなのだと気がついてきはじめた。これまでの方向がまちがっていたと気がついて、すべてはただ生き方の革命ということで同じなんだ、ニュー・ロック、ニュー・ジャズ、ニュー・ミュージックなどという区別がいかにむなしいことかと、まだ何もわからぬままで手さぐりをはじめている──そんなことを、感じたことがあるか?」  結城の声は熱がこもっていた。彼は良の肩に無意識に手をまわしてしっかり握り、並んで立って、下のプレーヤーたちを見守りながら低く早口に話していた。彼の云うことは、良には、ほとんど意味のないように感じられ、同時にわけもわからずに少し腹の立つものだったが、その内容よりも彼のことばの熱気に打たれて、良は、情熱のために少年のようにすら見えている彼の端正な横顔を見あげていた。 「と云ったって、むろん僕はきみを責めてやしないし──またコマーシャリズムをくつがえすべきだと云うんでもない。そんな理想主義や、マルクシズムの夢じゃあもう何もできないんだ。それよりは、もっとでかくなって、コマーシャリズムという荒馬を乗りこなすことだよ。現に僕だって、立花明だの、牟礼光二だのの曲を書く。こんどはきみのを書くことになってる。それでもうけさして貰って、やりたいことをやる。だがね、良くん、別に|シャリコマ《ヽヽヽヽヽ》だとわりきって平凡なつぎあわせ仕事をするわけじゃない。たとえ演歌のヨナ抜きって例の奴を書いていても、そいつに結城修二サウンドという商標をぺたりとはっとく、いい香料みたいにして僕の持っているいちばんいいもの、僕の夢や理想をそっとまぜこんでおく。むろんうすめにうすめてあるが、それでも、それがあれば、それを買って、いいと思ってくれた人は、こんどはもうちょっとそいつが濃くってもいいと云うかもしれない。そうやってつづけていけば、そのうちには、アタマが長かろうが、エレキギターをひこうが、いいものはいいんだっていうこの当り前のことを、当り前だとわかってくれる人ができるかもしれない。少なくとも、音楽は、どんな音楽でも、そいつと一緒に生きることによってその人をなぐさめたり助けたりする、かけがえのない友達であって、二階のドラ息子の遊び道具や、体裁と教養のためのワンセットじゃないってことに気づいてくれるかもしれない。そのきっかけはかわいこちゃん歌手だって、ボロは着ててもだっていいんだ。僕が皆に云いたいのは、音楽が素晴しいってことだよ、フルトヴェングラーもラヴェルもバッハも、クイーンもビートルズもヨースケ・ヤマシタも、フォルクローレもオーティス・レディングも、ミンガスも、ソニー・ロリンズもビリー・ホリデイもジャンゴ・ラインハルトもみんな素晴しいよ。僕はみんな好きだよ、何のちがいもない、それぞれが、それだけの素晴しさを持っている。港ひろみだっていいんだ。問題は音楽が素晴しいってことに、音楽と生きるのが素晴しいことだってことに気づくことだよ。──あ、おわったようだ」  下で、若者たちが、こちらを見あげて手をふっていた。結城は良の肩を抱いてうながして、スタジオへおりさせた。無頓着な口調でかれらをひきあわせる。若者たちはジョニーときいても、別に反撥もせぬかわり、特に興味も示さなかった。 「きょうのは、デモ・テープにするんだってね」 「ええ、こいつを例のアメさんのとこへ持ってくんですけどね」 「あとできかせて貰うよ。別に、急がんのだろう?」 「急ぐことおまへんねやけど、何や、やめとうなって来ましてん」 「おい、それ、云わんて云ったじゃないか」 「何だって? ビビったの?」 「いややな先生、ビビったんちゃうけどさ」 「あんなアメさんとこへ持ってって、威張られて結局じらされるかと思うとね──鳴海のぼんもイギリスまでレコーディングって餌につられてシコシコ、デモ・テープ持ってって、結局なんとか法にひっかかって帰されてるし」 「仕方ないさ、なんとかつてをたどっていくよりほかに。いま日本で、きみらの主張そっくりまげんでレコード出してやろうなんてとこはないんだからね。例のカートル・ヴィーも結局キャンベル・レコードの資本系列に組みこまれそうだし」 「知ってまっか先生、京都の連中、草柳を中心にした奴らでんな、あれらが、レコードの『自費出版』の話進めよるの」 「きいたよ、出資ひと口につきレコード六枚で払うってあれだろ。注目しているよ、あれには──うまくいけば、以後ひとつの新しい方法を切りひらいたことになる。ただ、問題はだねえ──」  結城は、良の存在を忘れたように見えた。目が輝き、若々しい情熱が均斉のとれた長身からほとばしり、若さの熱に燃えている相手の若者たちに伍して少しもひけをとらなかった。成熟して、しかも夢に疲れていない男の磁力がそのメカニズムに囲まれたスタジオを強烈に掌握しているようだった。  良は目を瞠って眺めていた。それは良のついぞ知らぬ世界だった。おそらく滝も知らぬ世界だ。滝の情熱はもっと暗く、翳を帯び、そして屈折していた。良はぬけるように青い空に白熱して誇らかに翔けるギリシアの太陽の輝きがひらけたような気がした。  しかし同時に良の中には、ひそかな不可解な無念さの衝動がつきあげているのだった。結城は──そして長髪の若者たちは、良を──いまやトップ・スターたるジョニーを──問題にしなかった。  かれらの世界は高みにあり、良には届くすべがないというかのようだった。結城の美しい顔は生き生きとし、光の強い目は炎を帯びて輝いた。良のためではなかった。結城は良を見てもいなかった。結城は自分と、その仲間だけがすべてをわきまえているような語調だった。  良はかれらの夢にも、その青春にも何の興味も抱かなかったくせに、かれらが自分を員数外にしているのがひどくばかにされたような気がした。良を見、取り巻くもので良を讃美し、おりあらばと狙っていないものはなかったのだ。男にも、女にも、危険で高価な唯一の宝石として扱われることに良は狎れていた。結城の情熱、結城の偉《おお》きさや若々しさや美しさ、つまりは彼の魅力を感じそめるにつけて、良は自分に向けられていないそれらをねたんだ。そうであるかぎりそれは無意味だった。  知らず知らずに、良の中の、猫の魔性がゆっくりと首をもたげている。良の結城への関心は、結城の良への無関心からはじまり、その彼を(こちらにむかせる)ことにむけられようとしていた。それが良の他人に持ちうる最大限の関心の唯一のかたちだったのだ。  良は自らのそんな心の動きには気づかずに、ただ漠然とした苛立ちと反撥の中で、若者たちと話に興じている結城の男らしい高貴な横顔に光る目をあてていた。 「先生、お客さんでっせ」  突然論争を打ちきって、ベースの若者が云った。良は驚いて見まわし、スタジオの入口の上にとりつけられた赤いランプが点滅するのを見た。結城は時計を見た。 「きみだな、坊や。おいで」  良は彼の云うなりにさせられているという激しい苛立ちをこらえて、彼につづいた。玄関に出ると、滝が立っていた。  滝の顔を見たとたんにこみあげてきた怒りは、良ですら予想もしていなかったほど、深刻で、冷やかなものだった。良の顔がひきしまった。 (ぼくを殺そうとした。ぼくを──だのに、こんな平気な顔で迎えに来てるんだ)  滝は、良の比類ない美しい、あけすけな信頼と無防備な我儘や軽薄さによってこの上ない生気を描きそえられていた愛する顔が、いわば、目の前でぷつりと死に絶えるのを見た。茶色の目には氷がはりつめ、ばたりと重い扉が閉ざされた。  良の冷たい目は、二年前の──デビューしたころの、滝を憎み反撥していたころの目に戻っていた。滝は胸をえぐられた。 「良──」  結城の目がなければ、いや、いても、この冷やかな目をした少年を思いきりひっぱたくか、抱きしめて泣きくずれるか、どちらかせずにはいられぬような激情が胸につきあげてきたが、滝はかろうじて踏みとどまった。こうしてしまったのは自分なのだ、という思いが彼をひきとめた。  良だって、とび出すほどに打ちひしがれたのだ。急に機嫌を直せと云ったって無理だろう。こんなことで、おれの良と、おれとの心の絆がちぎれてしまうわけがない──滝はそう思おうとした。時を待つのだ、と彼は自分に云いきかせた。 「どうも、先生、いろいろとご迷惑をおかけしてしまいまして──かさねがさね、お礼の申しあげようもございません」 「いいって、滝さん、あんたは固くっていけないな」  結城は屈託なげに笑った。しかしその底で何かがぴしっと緊張していることを滝は感じとった。 「心配することはなかったよ。熱もさがったし、だいぶ元気も出た。若いからね、もう大丈夫だろう。な、大丈夫だな、良くん?」  良は結城を呑みこんでしまおうとするような、大きな目で見あげた。はにかんだような笑いが口もとに漂った。結城は見たくないものを見たように目を伏せ、滝はふいと胸をつかれた。 (そうか? そうなのか、良? |もう《ヽヽ》か? そんな奴なのか、お前は? それとも──それも、おれのせいだとでも……云うつもりか──良!) 「スタジオはどうだね、面白かったかね」  気づくと、結城が良に云っていた。 「あんまり、知らん世界だろう」 「ええ」  良ははっきりとうなずいた。 「もっとぼく、ああいうことを知りたいと思います。ぼくは、何にも知らないから」  結城が深くうなずいた。  帰路では、二人は、あまり口をきかなかった。何か救いようのない気まずさがのしかかるようにわだかまっていた。あれほど二人を深く結びつけ、満ち足りていた信頼のあいだに、滝の殺意という楔が、とりかえすすべもないほど深く打ちこまれているようだった。滝は耐えがたくなった。 「良、きのうお前──」 「黙ってよ、ぼく考えごとをしてるんだから」  良はそっけなく云った。ついぞ使ったことのない口調だった。それから良は滝を見ずにつけくわえた。 「もうぼくは二度とあんたの云うことなんか信じやしないよ。もうとことんこりたよ。沢山だ」  良の声は熱さず、激昂よりもっと強い拒否を伝えていた。滝にはかえすべきことばもなかった。彼の罪だった。 [#改ページ]     19 「そう──よし。よし、そこはわかったね。じゃ、Bダッシュから2コーラス目をもう一度」  結城の指がキイの上を素早く走った。白くて、長い力強い、爪の美しい指である。五本の指それぞれが独立した生物であるように、素晴しいたくみさで易々と優雅な輪舞をくりかえすのを、ついうっとりして良は見つめていた。右の薬指に、複雑な彫銀にルビーをはめこんだ、風変りな美しい指輪がはまっている。その手のひらめきがとまったと思うと、指の関節がこつんと良の額に来た。 「またぼんやりする。ちゃんときいていなさい。僕はどこからだと云った?」 「B──Bダッシュ」 「2コーラス目だ」  もう一度こつんと叩かれて、良は首をちぢめた。 「レッスン中は他のことを考えない! 何度云ったらわかる。しょうのない奴だな」 「だってぼく──」 「口答えもなしだ。そう云っただろう?」  結城の語調は、容赦ない。良はぎゅっと口を結び、結城のひくピアノに合わせて云われたところをくりかえした。マルス・レコードの小スタジオの一室である。 「そら音がういた! もっと咽喉をしめる、ばかみたいに声を鼻に抜くんじゃない。きみはそれでプロの歌手か? ビブラートと声がブレるのはちがうぞ。咽喉をあけっぱなしにするな。腹にひびかせろ、口さきだけで歌うな。ほらほら、なんだそのブレスの仕方は! 中っ腹でやってるからだ。口惜しけりゃ、ちゃんと歌ってみろ。音を安定させる、感情をこめる。ほらほら、『は』にきこえるぞ、鼻に抜けるからだ。『いまだけなのか』はっきり云え。きみのは、『いまだフェなのファ』だ。いったいこれまでどんなレッスンを受けてたんだ? もういっぺん! そうそう、いくらかいい。よし、もう一回頭から。──だめだ、だめだ、さいごの一音をのばしおわっても、伴奏がおわるまで息を抜くな。やれやれおわったって顔をするな、いっぺんにイメージがくずれるぞ! 口をはっきりあける、よくひびかせる、音をはっきり正確に届かせる! よしもういい、今日はおわり!」  結城の指がすべるように美しいコードをかなでてカデンツァをひびかせ、ばたりとピアノの蓋を閉じた。くるりと椅子をまわし、良の不服そうに口をとがらせた顔をみとめ、皮肉そうににやりと笑う。逞しい指がひょいと顎へきて、しめつけるのを、怒って良はふり払おうとした。 「ふくれてるのか。呆れた奴だな、きみはこれまでよくよく我儘を通してきたんだな。山下君の話はきいてたが、これほど甘やかされてるとは思わなかったよ。云っとくが、僕はちがうよ。びしびし鍛え直してやる。その顔は何だ?」  いきなり、結城の唇が良の唇をおおった。良はかんかんに怒って押しのけようと山猫のようにもがいたが、口髭で上唇をこするようにして、強い力でかかえこんだ彼は、良が息ができなくてからだから力が抜けてしまうまではなさずにおいた。それからひょいとつきはなし、良のひどく怒った両目の上に唇をあてた。 「よしよし、怒るな、怒るな」  彼は焦らすように云った。 「きみは大変な子だな。これまで、誰にもびしびし云われたり、ぎゅっと押さえられたことがないみたいだな。滝さんは、きみにこんな我儘をよくさしといたな──まあ、あの人はするだろう。大事な商品だ。──きみは、けしからん、とてもわるい小僧だよ、わかってるかい? きみの、あの付人連中への態度といったら、我慢がならんくらい不埒千万だ。きみには少々怖い人が必要だな」  良は反抗的に目を爛々と光らせて結城をねめつけていた。ほっそりしたしなやかな全身に反抗の気がまえがみなぎっていた。結城はそれを別に見ようともせずに、ケントの箱を出して一本くわえた。 「実際手に負えない子で──参りかけて、ふらふらで僕に拾われたときのきみは、まったくたよりない赤ん坊で、誰かが助けてやらなくちゃいまにも消えちまいそうな、たまらなくいたいたしい感じがしたんだがね。そのうち、あまり我儘だと、きみを泣かせてみたくなって、そのためだけで苛めるかもしれないよ。僕は、きみの泣き方が気にいってる。無防備で、小さな子供みたいで、ひどく可哀想な泣き方だ。きみが素直な可愛い子に見えたのは、あのときだけだったな、小悪魔君」  良はあまり怒っていたので口答えもしなかった。ぎゅっと結んだ口と白く光る目が、口に出すよりも雄弁に何を云ってやがるんだと云っていた。結城は声を立てて笑って、指を良の艶やかな髪につっこみ、かき乱した。  良の新曲『明日なき恋』のレッスンが進んでいた。はじめて、山下国夫─松浦亮のコンビから、作詩中村滋、作曲結城修二と新しくなった作品だ。これはポップス系では最高といわれる超一流のヒットメーカー・コンビだった。牟礼光二の『時の流れに』や小林マミ子の『雪の別れ』、立花明の『愛の湖』などの大賞受賞曲がこのコンビから生まれている。それははじめから大ヒットを約束されている組みあわせだといってもさしつかえなかった。  もっとも、中には、大賞受賞のデビュー曲以来、たてつづけにミリオン・セラーをとばしてきた山下国夫が、たった一曲の不振、それも一応はベストテンの五位までのびた曲のために取りかえられることをいぶかったマスコミ関係者もいたかもしれない。  しかしそれも「発展的解消」と誰やらが云ったような説明の前で納得させられた。「階段から落ちてくじいた」良の左手首の傷と、「そのために発熱して」翌日の仕事がキャンセルされたことの真相はどの週刊誌にもとうとうのらずじまいだった。おそらく、それと前後した良の付人の交替も。べつにかれらがそれをうさんくさく思ういわれは何ひとつなかったのだから。──ただあとには、山下国夫がジョニーと別れ、たぶんそのあとがまのその美少年の庇護者には、結城修二が立候補して白井みゆきとひそかに競っているのではないか、という風評が流れた。  一部の事情通は良がすでにみゆきの獲物となったという確証を手に入れたと思っていて、にもかかわらず佐伯真一がいっこうにみゆきと別れたり、良と人前で殴りあいを演じたりしない、というのでふしぎがっていた。いや、結城は別にジョニーに目をつけてはいないのだ、と解説するものもあった。  結城はこの頽廃的な錯綜した虚飾の花園で、取り立てて自らを清浄潔白に見せかけるたちの人間ではなく、常に自らのその時々の愛人を公然と誇っていたので──そのいずれもがよりぬきの誇ってしかるべき名花ばかりだった、ということは特に確実だったが──女たちに対してと同様この芸能界という特殊な世界で女性と同種のものと見做されている美しい少年たちにも同じくらい証拠がそろっていたが、決して一度に一人以上の愛人は持たなかった。そんなにまめじゃないし、面倒くさくてかなわんじゃないか、と公言したといううわさがあった。  だから、と事情通は断言したわけである。ここのところ五カ月来、結城の愛人は新劇座の千田麗子である。素晴しい背徳を翳らせた支那美人のような顔と折れそうな細身のうちに、投げやりな熱情ととぎすました知性を持ったその美しい女優と、彼は少なくとも一晩おきにどこかのパーティ、ジャズ・クラブ、何かの演奏会や試写会、と出歩いていた。それは見るも快い奇妙に頽廃的な一対で、みごとな長身をウーステッドの三つ揃につつんだ美貌の結城と、支那服の裾から真白な脚をちらつかせ、白い卵なりの顔に杏仁形の目、ぴったりととかしつけた黒髪の女優がこれ見よがしによりそって通りすぎると誰もが息を呑んでふりかえらずにはいられなかった。  最高の相手しか選ばぬのは結城の矜持である。その中には女装の歌手で稀代の美貌を誇る三輪臣吾もいたし、最後の女役者と云われる瀬川美鈴もいた。結城のまわりには常に、若々しい音楽への情熱に満ちた青年たちと同時に、かぎりなく典雅で頽廃的な、愛の貴族階級もつきまとっていたのである。  そのことは、だから、と云うものと、いやいやそれだからこそ、と云うものをひき起した。あるものは、まだ千田麗子とつづいているから良とは何でもないのだと云ったし、あるものはそうした彼の遍歴からみればジョニーという愛称のこのたぐいまれな美少年くらい、結城にとって新鮮な獲物にふさわしい存在はないだろうと云った。  白井みゆきから千田麗子まで、どのひとりをとっても──佐伯はむしろその虚名《ヽヽ》のためにせよ──週刊誌に絶好の標的とされるべきネーム・ヴァリューと人気とスキャンダルにことかくものはいなかったので、女性週刊誌は得たりととびついてこのこみいったカドリールを書きたてつづけ、そして書かれる方は馴れっこで誰も別に気にもとめなかった。賤民《ヽヽ》どもが何を云い、何と非難しようと、かれらは知ったことではなかったのだ。  そして結城は良のレッスンをつづけていたが、実のところかれらはお世辞にも恋人とは思えず、会っているあいだに必ず最低二回以上は喧嘩をした。  喧嘩というのは正確ではなかったかもしれない。単に結城ががみがみ云い、皮肉を云い、眉をつりあげて面白がって見せ、それに良がかんかんになって怒り、ふくれたり、口答えをしたり、時には面と向かって反抗するだけだったからだ。良はなんて憎らしい、気障ないい男ぶったいけすかない奴だろうと結城を心中で罵りつづけ、結城はいっそう良を苛立たせるように余裕のある態度で良をあしらってみせるのだった。  これを見るに、結城はすでに良の性格を見抜き、その弱点をしっかりつかんでしまったのであると云えた。なぜなら、従順とやさしさには侮蔑と冷淡さを、圧力と横暴には激烈な反撥をかえす良の性格にとっては、相手に苛々させられ、気がかりでたまらず、たえずその相手を意識するというのは、唯一の、良が他人に抱きうる関心のかたちにほかならなかったからだ。それはすぐにでも相手しだいで、侮蔑か拒否かへ傾き得るものだった。  だが結城はそうした手続きをあやつって恋を摘みとるゲームに馴れていたし、あきらかにそうするつもりもあったのだ。結城の皮肉っぽい、面白がっているような手きびしい態度の内には、彼がこの我儘な強情な少年にひかれかけているということを示すものは何ひとつなかったのだが、それでも≪恋≫ということばはかれらのあいだの中空にいつもこっそりと微妙な底音をひびかせていた。 「さあ、おしまいだ。帰っていいよ。僕のそばになんか、いたくないんだろう?」  結城の手が良の髪をなぶっている。良はぐいと頭をふってふり払った。 「これから仕事か?」 「ええ」  ふくれ面で良は答えた。 「どこへ行くの。僕はちょっと赤坂だ。もしそっちなら送ってあげるよ」 「隆が迎えに来てるから──RTVのスタジオです」 「ああ、そう」  結城は目もとをほころばせて、そっけなく拒む口の下から行くさきは同じだと告げている良の口をとがらせた顔を愉快そうに見た。  はじめ、良ははっきりと誘惑してやろうという肚でもって、自信のあるあれこれの手管をためすことに心を砕いたのだった。自らの媚態に良はひそかに自信を持っていたし、それを使うのがたまらなく面白くもあった。長い睫毛を見開いて、訴えるような目でじっと見つめると、男女にかかわらず、相手は息のとまったような顔をし、しだいに燃えるような目の色で良を見つめはじめた。また、おとなしく、初心そうなようすでうつむいて睫毛をしばたたいていると、自分がひどく可憐に、淋しい幼児のように庇護欲をそそることも知っていた。 「きみがそんな顔をすると」  としょっちゅう山下は云っては目を細めていたのだ。 「云うことをきいてやらずにいられなくなるよ」  結城を自分の方に向かせてやろうと良がひそかに思うに至った動機は決して純粋なものとも、たちのいいものとも云えなかった。第一に良は自分を特別視せぬ結城に深い口惜しさと苛立ちを感じたし、第二に山下を易々と追い払ってしまったあと、良には、云うなりになり、庇護を加え、良の自信をここちよく保証してくれる惑溺したパトロンが必要だった。  滝は良に物を買い与えたり、遊びに連れて行ったりなどまずしなかったし、白井みゆきには佐伯というものがついていて、良ひとりをいいように甘やかすことはできなかった。そして、これだけは疑いようのないことだったが、まさにこのときになって滝と決裂したことが、良に、自分を愛し、守り、父親か、兄のようにうしろだてになってくれる存在をどうしても必要とさせたのである。  滝と喧嘩していなかったならば、はじめに二、三回媚態をためしてみて、痛烈にやられただけで、激怒と屈辱に耐え得ずに二度と良は結城に目もくれなかっただろう。良がうるんだような、どんな男でも抵抗できなくなってしまうような淋しげなまなざしで結城を見つめたとき、いきなり結城は不快なものを見たようにぴくりと眉を寄せて目をそらした。敏感な良には、面とむかって平手で打たれたのと同じことである。  それでもこりずに、最初のレッスンのときに良は甘えるような媚態を全身ににじませた。良は何も云わず、身ぶりもせずに、全身で相手にもたれかかり、甘えかかる心の内を伝えるこつを知っていた。  それを結城はしばらくじっと観察していたが、ふいにぐっと肩をそびやかし、からかうように眉をつりあげた。その皮肉な犬儒的な表情を良は見たことがあった。良が彼によって白井みゆきのリサイタルのゲストに選ばれ、みゆきと佐伯たちにひきあわされたときに、良の見せた初心で純情な少年という演技に手きびしい批評を無言で加えて、少年を屈辱で真赤にさせた顔つきである。この、喰わせ者め、お前の手の内はわかっているんだ、乗せられるものなら乗せてみろ、という目つきなのである。  こんどは良は憤怒のあまり青ざめた。そしてもう二度とあんな畜生にかかりあうものかとひとりで地団駄を踏み、いまに見ていろ、あいつがぼくに参ったときに徹底的に恥をかかしてひきずりまわしてやるから、とそれ自体矛盾した二つの思いに夜も眠れなかったが、奇妙なことに良が結城に面白がられていると気づき、もうあんな奴と口もきくものかと反抗を全身からほとばしらせてレッスン場へあらわれると、結城の方は一晩寝ずに後悔していたような少し青ざめた顔であらわれて、むやみと良にやさしく話しかけ、良を当惑させてしまうのだった。  そして、良には見られていないと思っているときの結城の、あやうく苦しんでいるのかと思わせるような奇妙な目が、良を再びこの男を手玉にとる自信へひき戻す。それは奇妙なゲーム、しかしみゆきや佐伯相手とはちがって裏にすぐにでも生命がけになりそうなおののきをひそめたゲームのくりかえしであると云えた。  結城はひとことも可愛いとも、好きだと匂わせもせぬままで、決して良を愛撫する機を逃さず、巧妙に折をとらえて髪を撫でたり、軽く叩いたり、小突いたり、耳をひっぱったりし、接吻をも幾度も奪ったが、それを全部いかにもいやがらせのように見せかけてしたもので、良はそのたびにひどく怒ってしまって身震いしてあとずさりし、手を払いのけ、本気で叩きかえそうとまでした。結城はそれを見ると良の手首をつかまえてひどく笑い、良の怒りを明らかになぶって楽しんでいるというところをはっきり見せた。 「きみの力で僕をやっつけられるものか」  彼は面とむかって嘲笑し、細い手首を握っている指にぐっと力を入れて、悲鳴をあげるまでしめつけた。 「きみみたいな細っこい餓鬼なんか、女の子も同じことさ。何だ、この手は。僕の片手で握りつぶせるぜ。やってみてやろうか──いつもスタジオできみを待ってる、きみのファンの女の子連中の方が、ずっと逞しいじゃないか。みんなよく太ってること、きみの倍はある。きみなんか──腰なんか親指と人さし指ではさめちまう。僕はサディストのけは全然ないはずなのに、どういうわけかきみを見ていると苛めてやりたくてたまらなくなってくるな。きみが、そのか弱いきみがあんまりいい気になって甘やかされて、天下無敵みたいな顔で付人たちを顎で使ってるのを見てるとだな──きみは、いつか、こっぴどい目に会うかもしれんぞ。会うといいな。会うべきだよ」  良はあまり怒ってしまって返事もしない。その反抗で満ち満ちた鮮烈な美しさに、結城が内心息を呑んでいようなどと、想像できようはずもない。結城は笑って良の頬を指を丸めてはじいてみせる。 「きみはけしからん餓鬼だが、色目を使っているよりは、そうして怒った山猫みたいなところの方がずっと素直で可愛いな。背中を丸めて、爪を立てて、ふーっと云ってるとこだ。僕なんか、それ見たさにきみを怒らせてるようなものさ。なあ、ジョニー、いまどき猫かぶりと流し目にひっかかる大人なんて、よほどの田舎っぺか、間抜けな鼻下長様だぜ。ひとりふたり、抜け作のお上りさんをいいように手玉にとれたからって、才能があるなんて思いこまないことだな。きみの才能はむしろ、きみが意識してないときほど致命的に輝き出す種類のものらしいからね。僕が何を云ってるか、全然わからないらしいな? 結構、それでこそ僕のアルフレッド・ダグラスだ」 「誰──?」 「アルフレッド・ダグラス卿──きみは、『獄中記』を読んだことはないかね、ワイルドの?」  良は首をふった。 「そうか。まあいい──とにかく、そういう、手におえないロクデナシがいたのさ。恐ろしくきれいで、それこそ救いがたい我儘者の厄病神で。おや、怒ったね」 「別に」 「そうやってそっぽをむくとその小生意気なつんとした顎の形がとてもよく見えるな。観賞用の顔だね──まったく、すてきだ。接吻せずにいられなくなるよ。僕のサロメ──僕の接吻がいやかね?」 「さわらないで下さい」 「そんなことを云うと、僕は悲しむよ」 「知りません!」 「僕の手を、もぎはなせたら、はなしてごらん、坊や」  結城は嘲笑い、涙ぐむほど腹を立てた良がいきなり自分の唇をなぞったり、歯を割ろうとしたりして顎を押さえつけている彼の指にいやというほど歯を立ててやったのでようやく驚いて手をはなし、奇妙な、眉をつりあげた、おかしいような悲しいような表情で良をのぞきこんだ。  万事この調子だった。かれらは互いにひかれあっていること、いずれはこみいった会話のフットボールだの、ひそかに主権を争う無言のかけひきだの、そうした予備段階の夾雑物が一切片付けられて一気に一体化しようという激しい熱情の中へなだれこんでしまうであろうことを何となく──おそらく結城の方ははっきりと──知っていながら、絶対にそれを黙殺し、そんなことはありえないというそぶりをまきちらすことに時間を使っていた。  鈍感な人間や、事情にうとい人間だったら、かれらのようすから、結城修二と今西良は反撥し、軽蔑しあっている仇敵どうしであると結論するのはむしろたやすいことだったろう。結城にいたっては、一体そもそも良を怒らせて良に嫌われようとわざとそうしているのか、良を軽んじているとたえず当の相手に伝えようとしているのか、と思わせるくらいだった。  実のところは、彼は単に、良に溺れこんでいくことを、恐れているだけなのかもしれなかったのだが。彼は良の不平満々の顔を見おろし、奇妙なふうに唇をゆがめながら立ちあがって上着の袖を通した。 「放免だ。明日十時。こんど遅刻したら、とっつかまえて、お尻をひっぱたくよ。手加減ぬきでやってやるからな。一緒に乗って行くなら、車をまわしてくるから、玄関で待っといで」  良のふくれ面にはもう目もくれず、さっさと楽譜を取りまとめてスタジオのドアをあける。スタジオの前のベンチで待っていた、かわったばかりの付人の隆が嬉しそうに立ちあがった。ひょろりと背が高い、人なつこい顔つきの長髪の青年である。 「おしまいですか。ご苦労様」 「きみこそ、大変だねえ、お守りは」  結城はまた棘をひそめる。良は結城を無視した。 「ねえ、ぼくの楽譜持ってっといてよ。帰りにマンションへ届けてくれればいいからさ。滝さんは?」  云ってからぐっと頭をそらして唇をかんだ。つい習慣になっているのだ。結城は足をとめて、良のようすを見守っていた。 「忘れたんですか。局にさき乗りしてるって云ってたでしょう。なんだかワンマン・ショーの企画があるんだそうで」 「忘れやしないよ。そんなこと云ってなかったじゃないの」 「云ってましたよ、けさ送って来たとき」 「云ってないってば」 「だからぼくが局へ送れって」 「いいよ、さき行ってよ」 「でも」 「うるさいな、いいんだって云ってるじゃない。先生送ってくれるって云うからさ」 「ああ、そうですか」 「これトランクに入れといて」  コートを隆に投げつけた良は、眉根を寄せて見守っている結城の目にぶつかって、反抗的ににらみかえした。多少は、結城にあてつけてわざとつっけんどんにしているのが感じられる。ふんという思い入れで顎をつきあげて、良は身をひるがえして廊下をかけ出した。 「どこへ行くんですか」 「うるさいなあ、ほっといてよ。──トイレぐらい、好きに行かしてくれよ」 「ガレージだろう」  結城は荷物を持って歩き出した隆と並んで声をかけた。 「ええ。すいません、じゃお願いします」 「3スタだな」 「はあ」 「きみも、大変だね、──あの暴君じゃあ」 「なあに」  隆はにこりとした。 「口だけなんですよ。根はいい、やさしい坊やなんです。誤解されやすくて、可哀そうみたいですね。甘えたいさかりなんでしょう。──無理なんですよ、スケジュール見たってね。いくら若いたって、かけもち、かけもちで。神経が疲れるでしょう」 「おやおや、たしかこれで半月だな。もう、たぶらかされたのかい」 「たぶらかすなんて──言葉わるいですよ先生。十いくつでスターになった奴なんて、あんなもんです。ましな方ですよ、ジョニーは。ぼくはこれまで、東由紀夫の付人してたんです。すごいもんですよ、仕事が思うようにいかないってぼくに物投げるんですから。それでジョニーほど、可愛げ──っていうか、我儘しても憎めないってところはないんですからね」 「ユキか。あれも、評判はわるいな」 「それにぼくがついてたころはもう落ちかかってたんでね。さいしょにジョニーについたとき、ファンの女の子が押し寄せてくるの見て、やっぱり日の出の勢いのスターはちがうと思いましたよ。何やっても、落ちると裏目に出ますからねえ。ユキが思うように仕事とれなくなったころ、ぼくにアパートの便所掃除させましたもん。単なる八つ当りでね。ジョニーとこへ来て、いきなり、ぼく我儘だけど嫌いにならないでね、わるいところがあったら叱っていいよって云われたときは、あの子のこと、いっぺんで好きになっちまいましたよ」 「危い、危い」 「え?」 「それが手だって話さ。──いや、何でもないよ。きみ、それ、落ちるよ。僕にかしたまえ。ひとつ持つよ」 「すいません、先生」 「なあに」 「でもたしかに可愛いですよ。そうお思いになりませんか? 人気あるの、当然ですよ。魅力がありますよ」 「たしかにね」  結城は目で笑った。 「そいつが、困ったところだ。──ああ、いいよ、はい、これね──じゃ僕は車まわして、あの子を拾って、局の方へ行くからね。あとからついてくるか? さき行く? そう」 「じゃお願いします」 「ああ」  結城はメルセデス・ベンツのエンジンをかけた。かねがね、A級ライセンスを自認している腕前だ。なめらかに、車が動き出す。  車を家の表玄関にまわしてくると、十四、五人の少女たちに囲まれて、いくぶん困惑したような表情にそれでも笑いをうかべて、あとからあとからさしだされるサインブックにペンを走らせている、デニムの上下に緑と青と白のたてじまのブラウスの、良のほっそりした姿が目に入った。 (放っとくか)  結城は眩しそうに目を細めて車をとめ、しばらく見守っていた。良は困惑と愛嬌の入りまじった表情が妙に少年らしく、いくぶんかしげた首の線が優雅だった。  結城の端正な横顔はきびしくなり、気づかれぬところから良をぬすみ見るいま、その目には、まぎれもない惑溺の一歩手前で辛うじて身をひきとめ、危険をからかってみる男のような、ある予感をひそめた強い光があった。  しばらく見ていて、いっこうに少女たちが放免せず、それのみか、まだあとからあとからふえそうなのを見て、はじめて彼は口髭の下で苦笑に唇をゆがめて車からおり、少女たちをかきわけて良に近よった。 「おい、ジョニー、おくれるよ。3スタに一時半て云われてるんだろう」 「あ、そうです」  良はほっとしたような表情になった。 「だから、ね、またこんど」  かるく手をふり、ほうほうの体で人だかりを逃れてベンツの助手席にころげこむ。結城はすぐ車を出したが、なおも少女たちはジョニー、ジョニーと連呼しながらしばらく車を追ってこようとした。結城はそれをふりかえって、バタくさいしぐさで肩をすくめた。 「なあ、ジョニー、きみにもいいところがひとつだけあるね」  またからかうのかと良がきっとした表情になる。それをはぐらかすように真面目な顔で彼は云った。 「付人だの、スタッフだののあしらいを見れば、きみあたり、スター風を吹かせてそこらのファンの豚娘なんかはなもひっかけなさそうなところだが、どういうものか、きみはファンの子にはいたってサービスがいい」 「また、からかうんでしょう」 「そう嫌うなよ。ほめてるんだよ。ただ、どうしてそいつが局の下っぱだの、付人だのにまでゆきとどかんのか──まあ、どうでもいいね、こんなことは」  結城は警戒するような良の表情に目をとめて、にやにや笑った。 「僕の云うことは、信用できんかね」 「しません」 「僕が憎らしいか」 「ええ!」 「ご挨拶だねえ、僕はきみもなかなか、時としてずいぶん素直ないい子のときもあるってことは、ずっと認めているんだよ」 「知りません」 「強情だな、きみは」  ふいに怒ったように結城は云った。良は頭をまっすぐにしていた。 「誰にでも、そうなのか? 滝さんにでも、そうかね」 「滝さん?」  良の目が鋭くなった。 「滝さんが、何ですか?」 「きみはかれにも、そんなふうに手におえない子なのかときいているんだ」  結城の語調はいつにないほどきびしくて、苛立たしげである。良は眉を寄せて彼の無表情な横顔をうかがい、強情に黙りこんでいた。 「何となく、わかるような気がするな、僕には」  結城はしばらくして、呟いた。 「何がですか」 「滝さんが──きみに暴力をふるうわけが」 「滝さんはぼくに暴力なんかふるいません」  良は反射的にむっとして云い、そんな自分になお腹を立てた。 (あんな奴なんか!) 「生憎、僕は目が見えるよ」  結城は呟き、右手をハンドルからはなすと、突然良の首をつかんだ。良はびっくりして全身を固くした。 「こう、されたんだろう? わかってるよ」  結城は長い指で良の咽喉を巻き、ぐいと力を入れた。良は鋭い悲鳴をあげてその手をむしりとった。恐怖が身内を貫いていた。 「ぼくは……」 「どうしてかわからんが、あの、きみの咽喉の傷──恐ろしく、ショックだった」 「先生──?」 「きみは、裏おもてのある、我儘なわるい子だが──あの怯えたきみには、何のかけひきも手管もなかったね。きみは怪我した小鳥みたいに僕の掌にとびこんできて震えていた。男はね──男ってものは、きみのような子に会って、その小憎らしい思いあがったようすをじっと見ていると、どうしようもなく残酷になってくるものかもしれん。しかしそれはきみがそうさせるんだよ」  結城の声は低く、いつもの彼とはちがう何かを感じさせた。良は半ばは不安と懸念でもって彼を凝視していたが、結城の気分はそれが訪れたときと同様に前ぶれもなくたちまち平静へ戻っていた。 「さあ、着いた」  彼は車をとめた。良は礼も忘れて大急ぎで車からとびおりようとした。結城は苦笑して自分もおりた。 「そう嫌いなさんなって。3スタまで送るよ。ちょっと、お宅のマネに用がある」  否応なしに結城は良の腕をとらえて歩き出した。テレビ局の廊下をかれらとすれちがう職員や扮装をしたエキストラや付人たちなどが、このみごとな一対に目をひかれていくどもふりかえるのを良は感じ、いったいかれらの目に自分と結城とが何とうつっているのかと、ふいに頬が熱くなってくるのを感じた。ごく単純に作曲家とそれについている歌手といって見すごすには、どちらも美しすぎる。  ついこのあいだまで、用もないのに良につきまとっていた山下のことを覚えているものは、単に山下のいた位置が入れかわって結城のしめるところとなったという目でもちろんあっさりと断定してしまうだろう。  良は苛々してふり払おうとしたが結城の逞しい指は、しっかりと良の腕をつかんでいた。 「何を苛々しているんだね。まだそんなに時間が迫ってるわけじゃあるまい」  憎らしい結城が云った。再び、からかうように眉があがっている。良が何か云いかえそうとしてにらむと、もう彼は向うからやってきた顔馴染の局員に笑いながら挨拶していた。しかし、楽屋のドアを押そうとしたとき、いきなり彼の手が良の肩にまわされて、ひきとめた。 「明日の予定は?」 「十二時半までレッスンで、あと『サンデー・ワイド』のリハーサル、それだけです。なんでですか?」 「何時にあがる」 「わかりません」 「七時ごろなら、もう暇だな。じゃ、そのころどこかでおちあうか──それとも、何時にあがるかきいときなさい、そうしたら迎えに行くから」 「どこへ行くんですか。ぼくは、まだ、行くなんて云ってません」 「よしよし、そうとんがりなさんな。マネには僕から断っとくよ。たまには、僕とも付合いなさい」  良は相手の心をはかりかねて眉をひそめて見あげた。結城はその頬をつつき、ドアを押した。 「われわれはもっとよく知り合ってもいいんだからね。山下君みたいにね」  良はその皮肉をひそめた口調にぎくりとしてふりかえったが、結城は良の背中を押して中に入らせながら、王者の貫禄といったようすで室内の誰かれに会釈していた。滝と隆はすでに来ていた。 「いよう、お二人さん」  結城はまだ良の肩を、そのしなやかな感触を楽しむように押さえていた。かれらが滝たちの方へ行くのを見て、わる気はないがおっちょこちょいな番組のアシスタントの若いコメディアンが頓狂な声を出した。 「お似合だなあ」  リハを待っている歌手や付人たちが、いっせいにふたりに目をむけた。良は火がついたように赤くなってコメディアンを憎んだ。結城はにやにやして鷹揚にかまえている。みんなが笑ったが、それは必ずしも悪意のある笑いではなかった。三つ揃をすらりと着こなした外国人めいた美貌の結城と、顔を赤くしてその結城の手から身をもぎはなしたしなやかな少年とは、誰の目にも、いかさま似合の一対とうつったからである。  隆がいくぶん頬を赤らめてまぶしげに二人を見た。おそらく、隅でごそごそしていた滝がさっと青ざめたことに気づいたものは、結城の他にはなかっただろう。しかしそれも、大きなサングラスと、調子をあわせた微笑とがほとんど隠してしまっていた。滝はにこやかに結城に送って貰った礼を云った。 「いやあ──早かったね、隆くん」 「はあ」 「ちょっとこないだの話確認しておこうと思ってね」  結城は滝に云った。 「ああ、あれ──いずれ契約書の形にしてお届けにあがるつもりでおりましたが」 「その前に、まだいくつか納得のいかんことがあるから──ちょっと、いいかな、いま」 「はあ、結構です。──隆、わかってるな」 「はい。どうぞ」 「音合せ済んだら、休憩室に行ってるかい」  滝は良にふりむいた。良は、このところ滝と対するとき必ずやるように、いくぶんこわばった、わざとらしい微笑をうかべてうなずいた。結城の長身と並んで滝が出ていった。 「内証だけどね、こんどテレビで初のこころみっていう、二時間ぶっとおしのワンマン・ショーやるらしい」  隆が良の衣装を持ち運び用のケースから取り出してハンガーにかけながら囁いた。楽屋の中はがやがやしている。 「へえ、それぼくが?」 「まだ企画らしいけど、トップ・クラスを何人ったかな、ファン投票で決めて、歌わしたい歌もリクエスト集めて公開で。どうやら、そのトップに良ちゃんが来そうな話らしいよ」 「ふーん」  良は当り前だという顔をしてみせた。 「ねえ、何か飲むもんない」 「あんまり冷たいもの飲むとお腹にわるいよ」 「いいって。ねえ、じゃ、コーヒー買ってきてよ。休憩室の自動販売機のでいいからさ。オケの人もう来てるの」 「いまセッティング。音合わせが二時」 「ふん、どうせぼくラストだからな」 「わかったよ。砂糖は」 「砂糖、ミルク入りのミルク増量。いいかげんに、覚えそうなもんだけどな」  隆はなだめるようにうなずいて、いそいで出ていった。良は台本を気乗り薄にめくって見ていたが、例のコメディアンが近づいてきて何かからかおうとするのへ口をとがらせて顔をあげる。 「今西さん、すいませんけど、また頼まれ物」  そこへ、ミキサーの顔見知りの男が、割りこんできた。 「色紙?」 「そう、頼まれた分まとめといたから」 「オーケイ、どうせひまだから──あれっ、これTシャツじゃない。いいの? 勿体ないよ」 「いいんだって、そのためにわざわざ買ったんだってから。おれのいとこの子なんだけどね、すごいんだから、部屋じゅうジョニーのポスターをはって。気狂いですよ」 「あのラジオカセットのCMで、等身大の立て看つくったろ。あれ、夜の間に持ってかれるんだってね」  コメディアンが云った。良はつみかさねた色紙にサインペンを走らせる手をとめて、困ったように顔を赤くした。 「すごいねえ。おれのなんか、持ってってくれたって持ってってくれへんわ」 「あったりまえですよ、いそさんじゃ」 「あれっ、云ってくれるじゃないの吉クン」 「済みませんがね、マネージャーをとおしていただかないとちょっと」  入口のところで、隆が記者らしい、くずれた風体の男と云い争っていた。良は素知らぬ顔でサインをつづけている。 「滝さんかい。ありゃだめだ、あの人にかかっちゃ、のらりくらりだから。わざわざ彼のいなくなるまで待ってたんだからさあ。なっ、付人のお兄ちゃん、これ、とっときなよ」 「いえ、そういうものをいただくとマネに叱られます」 「いいからさあ、ちょっとだけ」 「困るんですよ。お宅『レディス』さんでしょう。お宅はこないだのあの妙な記事でそうとううちの連中頭にきてるんですよ。告訴するかしないかって話まであったんですから」 「あんた、しっかりしてるね、付人のお兄ちゃん。あのマネさんのお仕込みがよろしいわけだ。まあまあ、相見互いだあね、あの記事? 『ああ芸能界! 十八歳の美少年ジョニーをめぐるこの愛欲相姦図』って奴──あれ、おれが書いたんじゃないぜ。それにけっこうな宣伝になったじゃないの。だからジョニーに直接コメントをさ──こんどはジョニー側の云い分て奴で、ひとことでいいんだってば。ほら、どいたどいた」 「帰って下さいよ」 「やあ、ジョニー、相変らず可愛いねえ」 「だめですよ」  と隆が怒鳴った。 「おや、いそさん」 「やあ、フーさんか。こんないい子を苛めなさんなよ」 「とんでもない。こっちゃ、商売ですからね。なあ、ジョニー、ひとこと云ってよ。何でもいいからさ」 「ジョニー、だめだよ、相手になっちゃ」 「スポークスマンがついてないと、話もできない、かね? ねえ、こないだの記事、読んだでしょ。あれについて何かひとこと──ノーコメントってコメントでもいいんだぜ。そいつを、こっちで、ちゃんと見開き四ページの記事にしてあげるからさ」 「今西さん、済みません、サイン頼まれてるんですけど」 「あとあと」 「ジョニーってば」 「今西さん、音合わせお願いします」 「あ、はい」 「ちょっと待ってよ。ひとこと」  救われたように良はスタジオの方へとんでいった。記者はいったん良をあきらめ、ほっとした隆は渡すひまのなかった紙コップのコーヒーをおく場所をさがしてから、肩をすくめて自分で飲みほした。 「ジョニーも大変だなあ」 「売れっ子の悲哀かね」 「あの若さで、常にスキャンダルの中心人物ってのも相当なもんじゃない」 「またそれがどういうもんか人気にさわらんね」 「江島紀夫なんて、華麗なる女性遍歴告白って例のをやらかしてから、たちまち少女ファンがはなれちまったのにな」 「清純そうな顔じゃ、べつに紀夫にひけはとらないんだけどな。わからんね、女の子って奴は」  隅の方で、TV局員と演歌歌手のマネージャーがひそひそ話しているのを知らぬ顔をして、隆はせっせと鏡台のまわりを片付けていた。スタジオの方からは、音合わせのバンドがきこえてくる。滝がその点は厳格にしつけているので、リハーサル用歌手というのがいて、それに音合わせ、リハ任せっぱなしという売れっ子歌手も多いが良は必ず手を抜かず、リハーサルを正式に済ませる習慣がついている。  音合わせが済むとリハーサルまで三十分の休憩になった。歌手たちは楽屋にひきあげたり、休憩室でくつろいだりする。良は休憩室で、隆に買って来させたコーヒーを飲みながら結城のことを考えるともなく考えていた。 (あした、何の用があるっていうんだろう)  結城のことが気がかりでたまらない。それはこの半月来、ずっとわだかまっている感情である。ひとが気がかりで、念頭から追いやることができない──そんなことは、良にとっては、ついぞ知らぬ感情であった。滝のときともちがう。良がたえず滝の存在を気にし、その関心を欲しがり、その心を独占しておきたがったのは、この少年の知らぬ父親の愛への憧憬が、微妙に混りこんでいた。  結城は、良が自分をどう思っていようと、知ったことか、と云っているようにふるまう。常にうわ手うわ手と押さえつけてきて、良の反抗や敵意を賞味しているような感じさえする。良の鋭敏な感覚はさらにとぎすまされてはりつめ、良はたえず全身で、結城のかぶせてくる網を払い、はねかえそうともがき、暴れ、そうすることでかえって深みにはまってゆく魚に似ていた。  結城は良に、彼の圧倒的な力と優位とを、叩きこもうとしているようでもある。彼の何も見逃さぬ目は、良のような少年にはいったん弱みを見せたらさいごだということ、そういう相手を屈服させるには、とにかく相手をひきずりまわし、否応なしに敬意を植えつける以外にないと鋭く見てとっているようだった。  そうやって良を手荒く教育しようとしている結城の気持ぐらいは、良にも読み取ることができる。結城がたえず良の嘘や打算を見すかして嘲笑ってみせるのへ、それをつかまえてせせら笑いかえしてやってもいいのだが、ただ良をたじろがせるのは、結城という男の大きさ、あえて云えば、底知れなさだった。  結城には、良の知らぬ、良の入れもせぬ世界への扉がいくつでもあるかのようである。音楽への情熱に少年のようになる彼、悪魔の中に惑溺のはじまりをひそめて良をなぶる彼、典雅な趣味に身を飾る彼の社交生活、彼の愛人たちの噂、結城には無数のチャンネルがある。どうしても良がことあるごとに比べてしまう滝の、良にちらりとしかのぞかせぬ陰の顔、もっと暗い、したたかな顔ともそれはちがう。  滝の場合には、むしろおもてにむけた温厚な微笑が仮面であった。結城にとっては、そのチャンネルのどれもがほんとうの彼で、そしてそれを自在に使いこなしているようだ。  良は結城の美貌や皮肉さや恵まれた才能よりはいっそう、彼の奥行きの深さに気がかりを覚えた。不可解な、常にうわ手に出ようとする彼を自分にむけさせ、そのチャンネルのどれをも自分ひとりで満たしてやれたら小気味がよいだろうと感じる。  良のなかの、生贄にひとの血の滴る心臓を飽くことなく望む、悪魔がうごめき出している。たやすく捧げられるものよりはあらゆる手管で摘みとるもの、ひとつしかない誓いをおうむのようにくりかえす単純なそれよりは力づよく偉《おお》きな、まかりまちがえれば釣手をひとのみにしかねない怪魚のような生贄のほうが、よりいっそう心にかなう甘美な獲物にはちがいないのだ。  結城と良とは互いに、同時に猟人であり、獲物でもある錯綜したひきあいの中でバランスの地点をさがしているかのようだった。 「ジョニー、何考えてるの。ひとりで」  良は目をあげた。水木由香利がほほえみかけていた。少しはなれた目と受け口が色っぽい、|おとな《ヽヽヽ》の愛を歌って人気のある歌手である。年は、そろそろ年増の仲間入りをするくらいだろう。 「あなたって無口よね。いつも、なんとなく、近寄りがたいわ」  由香利は重たげな付睫毛のかげから目で愛撫するように良を見ながら、となりに腰をおろした。 「あたしにも、コーヒー買ってくれない」 「ブラック?」 「砂糖抜きで、ミルク」  良は面白くもなさそうに騎士の役目をつとめて、紙コップを手渡しながら女の誘いかけるような笑いを見かえした。 「ありがと。──あなたって、いつでも、なんとなくものうげね。退屈した猫みたい」 「ぼくと話なんかしてると、書き立てられますよ、水木さん」  良は呟くように云った。由香利は笑った。 「かまうもんですか。どうせあたしたち、評判のわるい男と女の集まりなのよ。そうじゃなくって?」  由香利は良を誘っている。共演者にカーテンの蔭で手をそっと握られたり、ロング・リサイタルで劇場に通ううちに、なにかと親切にしてくれた大道具の若者が思いつめた顔で手紙をポケットに押しこんできたり、そんなことは良には珍しくない。そうした相手と気まぐれに一夜をすごすことも、良にはたやすいことだった。  由香利の豊かな胸のあたりから、成熟した女のそれとなく誘っている色香が立ちのぼってくる。ふと、良はひかれるものを感じた。 「それにいつだってあの連中は嘘ばっかり並べてさ──思ってたのよ、ほんとのところ、どうなんだろうなって。だって、ねえ、白井みゆきとあなたじゃ、いくらなんでも、年がちがいすぎるんだもの」  あいだのはなれた、色っぽい目が良を灼くように、視線がからみついてくる。おんなじだ、と良は思った。誘えば、夕食、クラブ、女の部屋、シャワー、接吻、むつごと──何人の女と、それとも男と、そうやって夜をすごし、それきり会わなかっただろう。  一回でない場合もある。それだって同じことだ、ただ、もう一夜か二夜か三夜、そのひとと使った夜が多いだけだ。記憶が、かれらを縛るわけでも、恋しさが巣喰うわけでもない。  由香利は良が決めるのを待っていた。良は秤にかけているところだった。滝の目をごまかし、適当な口実をさがす面倒と、どうせまた仕事だと称して滝が逃げ出してしまったあと、食事をし、わざわざ出かける気にもならず、どうやって夜をすごそうかとあぐねる寂寞と。  心が通じていれば、滝とふたりですごす夜ぐらい、落着く、安楽なものはなかった。いまでは、双方が、ふたりきりになることを恐れている。どちらも申しあわせたように、あれきりあの夜のことにふれないが、時がたつにつれてその夜の記憶は重くわだかまって、二人のあいだに溝をひろげている。  良が何とも返事せずにいるうちに、ドアがあいて、滝ひとりが入ってきた。それを見るなり、反射的に良は心を決めた。 「あとで、ね」  まともに女の目をのぞきこんでほほえみかける。由香利は色っぽいウインクをよこして、立ちあがった。隆は何もきかなかった顔だ。今夜は、あの女と寝るのか、と良は思った。  由香利も良を欲しがるたいていの女と同様に、可愛いと囁きかけ、積極的に導き、唇を接吻でおおいつくすだろう。一夜だけの情人。そのどこがわるいというのか、と良は思った。どっちみち、自分を切売りして生きているのだ。  滝は由香利を見送って、じろりと良に、わかっているんだぞと云いたげな目をむけた。良はその目をはねかえした。 「用、済んだの」 「ああ」 「結城先生は」 「これからヴィー・レコードの白崎裕と会うんだそうだ。こんど、アメリカのプロデューサーに白崎のレコードを出さすって話になってるらしいな。彼、その橋渡しらしい」 「向うで発売」  興味なげに良はきいた。めったにTV局で顔を見ることもない、ニュー・ロックの急先鋒の、良はせいぜい名を知っているだけにすぎない。自分以外の世界への鋭くひろがってゆく関心というものを欠いている良である。驚くほどひろく深い関心と活動範囲を持っている結城が良にはふしぎだった。 「ということだな」  滝にも、金にもならぬ、アンチ・マスメディアを標榜するくちばしの黄色い連中には興味はない。 「隆から、きいたか?」 「ワンマン・ショーのこと」 「ああ」 「まださきなんでしょ」 「ああ、やるにせよ来年になるな。しかし、名誉な話だからね」 「やるとなれば、うんとやるよ」  滝と良とのかわすことばは、中に何かを隠しているようだ。ほんとうは、こんなことばをかわしたいのではない、こんな口調で話したいのではない、もっと激しく、むきだしにぶつけあいたいのだ。愛を、たとえ憎悪をでも。  しかし、滝の穏和でさりげない平静さを装った顔を見るたびに良は、(あんなことをしたのに)と冷やかな怒りの炎をあふられ、良の、心の扉をしめきってしまったような拒否をつきつけられるたびに滝は(そっちがいつまでもくだくだこだわるなら、こっちから折れてなど出るものか)と思った。  かれらは、互いに強い、自尊心の高い、意地強い気性の持主だった。それは、決していいかげんで妥協しておくことを知らない。かれらのあいだには、最高の信頼、至上の愛でなければ、はげしい拮抗と最悪の心のくいちがいしかなかった。 (ぼくを裏切ったんだ!) (いつまで拗ねているつもりだ、この我儘な思いあがった小僧め) (ぼくを殺そうとしたくせに!)  かれらはほとんど激烈に憎しみあっているかのような冷戦状態をふたりだけのひそかな世界にはびこらせていた。  滝には実のところ良に確実に抱いた殺意に対する、ひそかなうしろめたさがある。それが滝の怒りをどこかで弱くしていて、爆発させず、陰にこもったものにする。良は冷やかな反撥と拒否を従順に装ってかえしてくる。かれらの葛藤は半月のあいだにつのり、もつれにもつれて、いまではどちらかの何か思いきった手段でもないかぎりとうていとけぬくらいにまでわだかまってしまっていた。  しかし滝にはそれができなかった。折も折、結城という存在があらわれていたからである。 「先生が、明晩お前を借りると云ってたよ、良」 「……」 「スタジオへ迎えに来るそうだ」 「そう」 「先生はお前に何の用があるんだ?」 「さあ、ぼくは知らないよ」 「知らんことはないだろう」 「知らないったら知らないんだよ、疑ってるの。不愉快だな!」 (お前が不愉快だろうとおれの知ったことか、いつだって、疑われて当り前のようなふるまいしかして来ないじゃないか) 「先生にねだりがましい真似をするなよ」 「誰がそんなこと! 失礼なこと云わないでよ」 「あの先生は誰かさんとはちがうってのを忘れるなよ」 「へえっ、誰のこと、誰かさんて」 「もういい!」 「誰が──ぼくは嫌いだな、あんな気障な奴。滝さんがどうしてあの人好きなのか、わかんないね」  良はその気になると実に小生意気な憎らしいだけの存在になり得た。滝は、そのたびに、思いきりはりとばすか、いやという程ゆすぶってやる欲望に身が疼くが、かろうじて自制する。 (もう少しだぞ、小僧──もう少しで爆発するぞ。そうだ──もっとやってみろ)  すると、良はするりとくぐりぬけて、リハーサルだと称して抜け出してしまうのだった。あとに残された滝はひとり歯がみする思いで身内の沸騰を押さえる。それが、この頃の滝と良の、おおむねの関係なのだった。 [#改ページ]     20 「だいぶ、かかったね。十五分くらい待ったよ」  結城の語調には、レッスンで良をいためつけるときと同じ、叱責がひそんでいた。メルセデス・ベンツの助手席に、ベージュのトレンチ・コートをふわりとさせて乗りこんだ良は頬をふくらせて結城をねめつけた。良は、結城が車からおりて迎えにも来なかったというのが、不満なのである。 「きみは、時間を守らんたちかね。そうだとしたら、それだけは直して貰わんと困る。僕はアンパンクチュアルには我慢がならない」 「だってリハがのびたから」 「その口答えもいい趣味だとは云えんね。きみには実にたくさん、直さんとならんところがあるよ」  結城はぴしゃりとやっつけた。良は全身を反抗心のかたまりにして座っていたが、すると結城は首をねじまげて、良を上から下まで眺めた。ジーンズのパンタロン、黒っぽいシャツの咽喉からよく合った派手なスカーフがのぞいている。トレンチ・コートの前をあけ、いくらかだらしなくベルトを垂らしはなしにして、ポケットに手をつっこんだまま、黙りこくって座っている。  結城は信号待ちでとまった隙にすばやく手をのばして、スカーフの具合を直した。良はびっくりして反射的に身をちぢめる。 「何を怯えてるんだ」  結城は肩をすくめて車を出しながら云った。 「ちょっと、くずれてるが、なかなかきれいだよ」 「ねえ、どこへ行くんですか。ぼくに用って何なんですか」 「会わせたいひとがいるだけさ。おや? きみは、ピアスをしてるね?」 「ええ」 「ふむ」  良は、それきり別に何もことばをつづけない結城を、いくぶん苛立ち、そして認めたくはないが少し不安になった目でそっと見あげた。車は夜の町をなめらかに走っている。 「きみは、そわそわしてるね。落着かない子だな」  結城がとがめた。 「僕ときみの、最初のデートだというのに、だめだね」 「だって先生は、どこへ行くのかも、誰と会うのかも、いくらきいたって、教えてくれないじゃないですか」 「怖いかね?」 「怖くなんかないけど」 「じゃいいだろう。別に変なところじゃない。ただ、僕にもどこへ行くのかわからんのでね」 「え?」  良は、何をからかっているのかとにらむように彼を見た。結城は大真面目な顔をしていた。 「まず原宿の『ロジェ』それから『プチモンド』でいなかったら赤坂へ戻って『赤い城』か『ムラン』、そこまで行っていなかったら、あきらめて、きみの好きなところで好きなものをご馳走しよう。でも、きみは、どこへ行っても、ここはいつも来るんだって顔してなきゃだめだよ。おすまし顔は、十八番だろ?」  良には、いよいよよくわからない。何をたくらんでいるのかと、唇をかんで黙りこんだ。結城はあくまで大真面目である。 「さて、着いた。ここで済むと、だいぶ手間がはぶけて、きみと僕自身のために使う時間がたっぷりあるってことになるんだが。おりなさい」  結城が車をとめたのは、ロココ風に飾りつけをした店である。一階がレストランで、地下がクラブになっているらしいその瀟洒な店に、すでに常連らしい気楽さで結城は良の肩を抱いて入っていった。その見事な一対がやわらかな照明の中に姿を見せると、店の客の目がひきつけられた。 「結城先生、そちらの方は、今西さんでしょう」  給仕頭といった貫禄の中年のウエイターが、感心したように声をかける。 「知ってたか、浅野さんでも」 「可哀そうに、うちだってTVぐらいありますよ。いまどき天下のジョニーを知らんで、原宿に店をやってられますか」  そう応じたところを見ると、この男がマスターであるらしい。 「下、やってるの。まだ少し早いかと思ったんだが、なにしろ連れが未成年だと、保護監督の責任上あんまりおそくまでは見せびらかして歩くわけにもいかないんでね」 「はあ、もうやっとります。コバちゃんとダンさんが来てないですが」 「じゃあピアノ・デュオか。結構だね」 「先生もおひとつ、二台のピアノといきましょうよ。ウエスト・コースト・タッチで」 「だめだめ、今夜は僕は売約済だ。で?」  結城はかるく首をかしげてみせた。マスターは心得顔でかぶりをふった。 「まだのようですね。おや先生、のぞいてらっしゃらないんで? クラさんが、泣きますよ」 「そうそう、クラさんは先生にべた惚れなんだから」  手前のボックスをしめて、女連れでワイン・グラスをかたむけていた客がいかにも馴染らしく口をはさんだ。見ると、前衛ヌードで勇名をはせたカメラマンの戸田亮平である。 「冗談じゃない。あのパラノイアにとっつかまった日にゃ、あしたの朝まで相手をさせられる。じゃ、また来るよ。クラさんとその一味によろしく云っといて下さい。ジョニー、行こうや」  おもてに出てから、結城は説明した。 「この地下が有名な、ジャズのライヴ・スポットの『ロジェ』なんだ。いつも土曜には山口俊輔トリオが出るんで、超満員になるが、いま云ってた倉橋英夫のカルテットだって、どうしていいよ。日本のジャズ・シーンじゃ、まず五指に入るピアニストだ。きみは、ジャズのことは、あまり知らないんだろう」 「知りません。でも滝さんが大好きでいっぱいレコード持ってるから」 「知ってるよ、ときどき『ロジェ』に来てる。鉄の心臓を持つ男の、唯一のサンチマンというところかね」  良は驚いて彼を見つめた。滝と結城の行動半径がそんなふうにかさなりあうことは、良にはひどく奇妙なことに思われたのだ。 「さて、と、第一候補の『ロジェ』がだめ、となると、『プチモンド』だな。いやいや、その前に念のために『シャルマン』によってみるか? どっちにしても、すぐだ。歩こう、坊や」 「誰か、さがしてるんですか?」  良は不審そうにきいた。 「そのとおり」 「どうして、その人の連絡先にきいてみないんですか、どこにいるかって?」 「え、何だって? ばかだねえ、きみは! 僕はね、偶然《ヽヽ》そのひととばったり出会いたいんだよ。偶然ね」  それになんだって自分がつきあってひっぱりまわされるのだろう、と良は不服である。しかし結城はいっこうおかまいなしで、我物顔に良の肩に手をまわしたまま、着飾った原宿族のあいだを歩き出した。  このあたりはモデルだの、芸能人の卵だの、いずれにせよ最新流行の服に着飾った、いたいたしいほど洒落こんだ連中が、昼は昼ながら、夜は夜を徹して泳ぎまわっているところだ。ジャクリーン・オナシスが歩いていようと、アラン・ドロンが来ようと、そこらのミーハーのように目ひき袖ひき騒ぎ立ててたまるものか、というのはその連中の最大の衿持だし、本物の有名人もこの界隈をねじろにするものがたくさんいるから、有名人にわるく馴れてもいる。しかしそのかれらでも、結城と良の組み合せが通りすぎると、はからずもという感じでふりかえって見た。  長身で逞しい結城の、良はちょうど肩のあたりに耳がくる感じになる。これ見よがしにさしのべられた結城の手は、いかにも手頃であるらしく、その良の細い肩を抱き寄せていた。良は半分得意で、半分腹が立ち、そこへ懸念と狼狽が入りまじって、ポケットに両手をつっこんだまま、いくぶん身を固くして重い彼の腕に首を巻かれている。  結城はその良を見おろし、少し首をかしげて、囁いた。 「きみと僕の組み合せは、どうもいささかセンセーショナルらしいね。さっきの孔雀みたいな一見ホスト風、見たかね。わざわざ立ちどまって、上から下まで見ていった。これは、きみの罪だな。僕はそんな風に観賞されたことはないからな。ところがきみときたらいかにも観賞用だ」 「知りません」 「おやまたふくれてるね! でも、きみの怒ったところは好きだ。そうやって怖い目付で、コートのポケットに手をつっこんで、肩を怒らせると、ちょっとパリの不良少年みたいで、粋だよ。ポケットにスイッチ・ナイフでも持っていそうだ。さあ、ここだよ。こんどは的だといいんだがな──さきにお入り、さきに」  良は『プチモンド』と飾り文字の看板の出た、重たい木の大きなドアを見あげ、それからうしろから結城に押されるままにドアを押した。ここはいかにも高級クラブらしい店で、ドアをあけると細い階段が地下へのびている。壁にはやわらかい布が貼ってあり、人間の黄金色の腕が握ってつきだしているランプが足もとを照らしていた。靴の下で、階段には厚いじゅうたんがしきつめられている感触が快い。おりきったところに、もう一つ、黒いドアがあり、自動扉で開いた。  良は珍しそうに黒と白に金をあしらった、趣味のいいインテリアを見まわした。白いピアノの前で女の歌手が弾き語りをやっている。  肩の上におかれた結城の手にぐいと力がこもった。良ははっとして結城を見あげ、その視線を追い、そしてぴくりと眉をひきつらせた。  結城の視線のさきには、ひとりの女がいる。カウンターで、どちらも何かで見たことのある、俳優らしい男ふたりにはさまれてかけて、なにかカクテルのグラスを手にしていたのが、半ば首をねじまげた形で結城と良を見ている。どきりとするくらい、印象的に美しい女である。  少年めいてきゃしゃなからだを男仕立ての三つ揃のスーツにつつみ、オリーブ色のブラウスの衿から恐ろしく大きな真珠のネックレスが見えていた。白鳥のような首の上に、完全な卵型のなまめかしい顔がある。ぴったりと黒髪を切りそろえて頭に撫でつけているので、どこか支那美人めいているその顔は、色っぽさと知性の奇妙な融和だった。  千田麗子なのである。  思わず見とれていた良は、突然結城の熱い息が彼の囁きと同時に耳をくすぐったので驚いてふりむいた。 「ありがたい、二軒目で済んだ。さあ、お神輿をすえよう、良くん」 「ぼくは──先生は……」  良は混乱して、しどろもどろになった。かまわずに結城は隅のボックスを選んで腰をおろした。良のコートをぬがせてやり、 「僕と並びなさい」  有無を云わさぬ口調で云う。同時に強い手が良の細い肩を押さえて腰かけさせた。 「僕はまずバーボン、ダブルで。この子にジン・ライム」  ボーイに云ってから、良に見とれる目をむけているボーイに笑い出した。 「色紙なんか持って来ちゃだめだよ」  うろたえたようにボーイがひきさがるのを見送って、彼は良に微笑みかけた。 「きみは、腹がへってるのかな。もし、それほどでもなければ、ここではアペリチフということにして、あとでステーキ・ハウスにでも行こうや。いや、ここもわるかないが、僕は飲むところでがつがつ食うのは好きじゃない」 「ぼくはどうでも──」  良はまだ半分、女優に気をとられている。もう女優は向うをむいて、連れと話していた。たしかに、その新劇の女優は最も新しい結城の愛人であると、雑誌でも読んだ。レコード会社の人か、滝であったか、そう噂していた者もあったと思う。だが、そうすると一体これはどういうことなのか、と良は自分の立場を決めかねていた。  結城が偶然に会ったようにして会おうとさがしまわっていたのはその女優にちがいないのだ。  結城は千田麗子を誰かにとられたのだろうか、例えばそこの連れのどちらかに、と考えてみたが、良の考えでさえ、結城と争って勝目のある男がそう沢山いるとは思えなかった。そのときウエイターが飲物を運んできた。 「さて、まず乾杯しよう」  結城はグラスをあげた。 「我々の最初の日の為に」  良はグラスをふれあわせたが、結城のことばをほとんどきいていなかった。ちょうどそのとき、ストゥールをすべりおりた千田麗子が、かかえる型のハンドバッグを優雅に持ち直しながら、まっすぐに、連れふたりをおきざりにしてかれらのボックスへ歩いてきたからである。 「ボン・ニュイ」 「やあ」  結城は目もとを和ませて、彼女を見あげた。口からはなしたバーボンのグラスをふって、向いの椅子を示す。彼女は奇妙な笑いをうかべながらかけた。スカートに、スリットが入っている。脚をはねあげて腰かけると、さながら絵のような雰囲気を作った。 「紹介しようね。こちらが千田麗子さん、新劇座の。こちらはジョニー」 「きれいだわ──とっても。テレビでいつも見てるけど、テレビよりずっときれいなのね」  彼女は良に微笑した。唇が玉虫色に輝いている。ものを云うと、目に深みがあり、声が静かで、知的な印象がほとんどそのなまめかしさを忘れさせてしまうくらいだった。  良は彼女の小さな手で髪を撫でて欲しいような気がし、何かが心にかなったときの、甘い夢見るような生真面目な表情で彼女を見つめていた。 「誰と?」  結城と麗子が奇妙に暗号めいた会話を投げあっているのがぼんやり心の表面をかすめてすぎる。 「劇団の若い人」 「いつもの?」 「まあね」 「どう、このごろは」 「まあまあだわ。そういえば、どのぐらいかしら」 「久しぶりだ」 「春の公演で忙しいわ。あなたは──きくまでもないわね」 「相変らず、こんな男さ」 「わかってるわ」 「こんどは、何」 「安田先生の書きおろし。脚本《ほん》待ちね」 「どうせ、きみが主役だ。また、蘭を持って行くよ」 「ありがとう。いい席をとっておくわ。二つにする?」 「たぶんね──どっちにしても」 「──でも、見て欲しいわ」 「僕も、見たい」 「ジョニー──すてきね」 「きみに見とれている。これが、こんな顔をして、おそろしく手におえない悪魔なんだよ」 「信じないわ。このきれいな目、ごらんなさいな」 「それが曲者さ」 「相変らずね」 「相変らずだ」  沈黙が落ちた。良はたいして気にもとめずに、女優をじっと見ていた。彼女の鞭のようなからだつきも、妖艶なくせに芯の強そうな怜悧な顔も気に入った。結城は良に、自分の情人を見せようと思ったのだろうか? と考える。 「元気、みたいだね」  結城が呟いた。麗子は彼を見て静かにほほえんでいた。 「とても元気よ。またそのうち、飲みにでも行きましょう」 「ああ、『ロジェ』でピアノを弾くときは、きみを呼ぼうか」 「そうして。あなたのピアノ好きよ」  また沈黙が落ちた。こんどはふいに良は落着かなくなって身動きした。結城と女優とのあいだに、何か自分の入れぬ静かなインティメイトな空間が濃密にわだかまっているのを感じ、急に興ざめたのだ。  良は、自分だけ暗黙の了解からはじきだされているのなど、いちばん嫌いだった。もぞもぞしはじめた良の肩を、結城は何かたしなめているようにぐっと押さえた。 「ジン・ライムを飲みなさい。おかわりが欲しいか」  良は首をふり、少しずつ啜った。麗子はそれをじっと見て、結城を見つめ、かるく笑った。 「いい夜ね」  彼女は云った。 「ああ」 「タバコ、ある?」 「ケントだよ」  一本抜いてくわえるのへ、結城の手のマッチが舞うような典雅さでさし出された。麗子は深く吸いこんで、煙を吐いた。それから、立ちあがった。 「行くかい」 「ええ。じゃ、ごゆっくりね」 「そのうち、電話するよ」 「そうして。今月中ならひまよ。来月二日から舞台稽古」 「がんばれよ」 「ありがと。じゃ、ね、ジョニー」  彼女のうしろ姿の素晴しい脚線を、良は見とれて見送っていた。それまでに知っているどんな女よりも色っぽさといい、感じのよさといい、美しさといい、最高級の女性だ、と考えていた。  残念ながら結城の趣味のよさは認めざるを得まい。彼はよりすぐり、すぐりぬいた、極上の最高級品にしか目もくれないのだ。しかし、このひと幕は、どういう意味だったのだろう? (ぼくに、彼女を見せびらかしたのかしら。彼女にぼくを検分させたのかな)  急に良は不愉快になってきた。勝手に、品物のように扱われてはたまらない、という思いがきざしてくる。良はなおさら黙りこんだ。  それは結城へのねたましさであったのかもしれない。結城が手をのばして、ぼんやりしていた良の手をとり、指をおもちゃにしながら突然云った。 「どうした? ばかにおとなしくなっちまって」 「別に……」 「どうだい、すてきな女《ひと》だろう、彼女は」 (やっぱりなんだ)  良はむっつりしていた。何にかはわからないが、ひどくがっかりし、いっそ泣き出したいくらいだった。あの美しい、賢そうな女性が、結城と愛をわけあっている、ということに失望したのかもしれない。彼女はいかにも可愛いように良を見たが、その杏仁型の目には、良に心を動かされたといういかなるしるしもなかった。水木由香利や減食療法中の白井みゆきなどより、彼女のようなひとがどうして自分を望んでくれないのだろう、と良は思った。彼女のような女らしい女は、やはり結城のような男にひかれるのだろうか。良はめったに女性に対してそんな讃嘆を覚えることがなかった。自分を欲しがって、近づいてくるような女性にはなおそうだった。千田麗子は、目を閉じて、そのきゃしゃな手でそっと背を撫でて欲しいような感じを起させた。彼女にはどことなく、マドンナのおもかげがあった。 「つまらなそうだな。出ようか」 「え……」 「どこかで、飯を食おう。何がいい」 「ぼくは……」 「何でも、きみの好きなものでいい。どうしたね、考えこんで。レッスンで苛めるからね、埋めあわせに今夜は好きなだけ甘やかしてあげるつもりなんだよ。とにかく、出ようや」 「もう──用は済んだんですか」 「ああ」  結城の目が、深い瞑想的な色あいを帯びて良を見つめた。 「済んだ。──これで、僕はきみのものだよ」  良は眉を寄せて、相手を見つめたが、彼はもう笑っていた。彼に押されるようにして外に出るとき、良はふと視線を感じて首をねじまげた。  千田麗子の目が二人を見送っていた。さえざえとした瞳が良の目とぶつかり、ちらりと笑って見せた。良は頬を赤らめて、はじめてはにかんだ笑いをうかべた。ドアがしまった。 「きれいな人ですね」 「だろう? 麗子なんていう名前を、ぴったりだと思ったのは、彼女がはじめてだ」 「いいんですか」 「何が」 「おいて来ちゃって」  ふいに、得体の知れぬ無念さが良の胸につきあげてきた。誰に、何にとも知らぬまま、良は嫉妬していた。涙がにじんできて、声がかすれた。ふたりは、暗い駐車場に立っていた。 「え? 何を云ってるんだ、きみは? きみは──どうしたんだ、良くん? きみは、べそをかいてるじゃないか」  結城は驚いたように云って、良をのぞきこんだ。力強い指が、良の顎に来た。良の唇が震えた。 「誰をおいて来ていいんだって?」 「あの人を──先生の……」  良は、みゆきからきいたことばを思い出した。 「先生の──アミなんでしょう?」  結城は瞬間黙っていた。それから良は、顎をしめつけている指にぐっと力が加わるのを感じた。結城は低い皮肉そうな笑い声を立てた。 「そうだよ──このあいだまではね」  あいた手が良の後頭部にまわり、髪をかき乱し、ぐっと彼の方にひき寄せた。良は、暗い中で目を瞠って、結城の表情を読もうとしながら、彼の腕の中にすっぽりとつつまれたかたちになった。深みのあるオー・デ・コロンの香りが漂った。 「きみは、ほんとうに、そんなぼんやりなのか。それとも、例によって、妙なお芝居をしてるだけかね。きみのその、わるい、小狡い、稚い頭の中で可愛い見えすいた計算をして──いやそうじゃない。きみはびっくりしてる。それじゃほんとうにわからなかったんだな。そうだ──僕には、もういいかげんにわかってもいいころだった。きみは、僕をびっくりさせるよ。きみはまるきり正反対の要素の気まぐれな結合だ。我儘で手に負えない高慢ちきだと思ってると、突然頼りない子供になって素直にもたれかかってくる。いけ図々しく媚びてみせるから困ったわるい子だと思って見ていると、ふいにひとの心を読み取ってしょげてしまい、僕に大人げなく傷つけてしまったといううしろめたさを起させる。強情で甘ったれで、勝手で繊細で、きみの心の動きには、どこか、ねえ、高貴と云っていいところがあるよ。恐ろしく敏感にこちらの気持を見抜いて反撥するからそうだと思っていると、はっきりと目の前にかかげてある降参のしるしさえついぼんやりと見すごして僕を面くらわせる。どうしてかは、わかるよ。きみはときどき、まるっきり、自分の中をしか見てないときがある。あらゆることがきみのそのうっとりとした目の中を上っ調子にすべりすぎていってしまうんだ。きみは、ほんとうに、僕がわけのわからぬことをすると思って怒っていたのかね。僕がきみを僕のアミに紹介したと思って──きみは、まだ気がつかなかったのかね。僕が誰のために、何のために、彼女と別れたのか」 「別れた?」  良は不たしかな声で云った。良の心はまだ美しい女優の上をさまよっていた。結城はつかんだままの良の顎をゆすぶった。 「彼女はすてきな女《ひと》だ。それに大人で、我々の関係がおわっても、いい友達どうしになれることがわかっていた。彼女はいつも云ってたよ、いつあたしと別れたっていいけれど、そのときには必ずあたしに新しい恋人を見せに来てちょうだい、そのひとがあたしよりつまらないひとだったら、別れてあげないわ、相手にとって不足のないひとでなければあなたをあきらめないわよって──彼女、きみが気に入ったらしい。彼女は、めったに、ひとを賞めないんだよ」  結城は指をはなし、良の頭と、腰に手をまわして、ひき寄せた。 「まだわからないの?──僕が、嫌いか?」  囁くと同時に、力強い唇が上からおおいかぶさるように、良の唇をとらえた。口髭が上唇をくすぐった。良は少しあらがい、首をふったが、押さえつけられると、そのままからだの力を抜いた。  誇らしさが、からだの奥深いところからわきあがってくる。奇蹟のように、結城に対する気おくれや口惜しさ、それに苛立たしさが溶けていくのだ。 (やっぱり──決まってるんだ。こんな男《ひと》だって、知らんふりして見せたって──わかってるんだ。いつだって……)  疼くような誇り、満足感、が良のからだを満たし、しみとおっていった。結城は長いこと、良を解放しなかった。圧倒的な力がしっかりと良をつかんでいる。それは、獲物を爪の下に押さえつけた鷲を思わせた。良の、すでに馴れた満足感の中に、一抹の、はじめて知る畏れに似た思いが混入していたのは、おそらくそのためだったのだろう。だがそれは、良の誇りをいっそう疼かせる畏れだった。  結城が山下や、良を望んだたくさんの男たちと、格のちがうことぐらい、良にもわかる。 (立派な男で、とても強くて、とても立派で──だけどぼくを好きなんだ。ぼくに参ってるんだ)  滝に対するひそかなうしろめたさは、良の誇らしい満足感の前にすぐ去った。都合のわるいことは、心の外にしめだしてしまう、良の性である。 「もう──はなして、誰か来るから」  良は、ようやく結城の唇から逃れて、かすれた声で囁いた。息を切らし、心臓が楽しく動悸を打っている。 「うまい唇だ」  結城は笑いを含んだ声で云った。 「乗りなさい。どこへ行く? 今夜は、甘やかしてやると云ったろう」 「ぼく──お腹がすいちゃったな」  良の声には、微妙な媚を含んだ甘えと、安心したようなそっけなさが、同時に混りあっている。結城は薄暗がりの中で良をふりむいた。闇の中で、良からは見えぬその端正な顔には、ほのかな苦々しさと憎しみにすら見まごう厳しいものがあった。 「今夜だけだよ──今夜は特別だからね。じゃあ、『ムラン』へ行こう。うまいヒレ・ミニヨンを食わせるよ。ピンク・シャンペンで乾杯しよう」 「シャンペン?」 「嫌いか」 「だって、すっぱいもの」 「そりゃ、安物を飲むからだよ。最高のを飲めば、こんなうまいものはない」  結城は運転に気をとられながら云った。 「僕はいいものが好きだ。いいものなら、なんでも好きだよ。いい本、いい音楽、いい生活、──僕は最高のものにしか惚れない。惚れこむと、どうしてもそれが欲しくなる。僕のもの、僕だけのものにして、惚れぼれと愛撫していたくなる。僕は、何でも、思いどおりにしたい。これまでも、してきた。僕が惚れこんで、どうしても欲しいと思ったものが僕の思いどおりにならず、反抗したり、もがいたりすると、僕は、それに、取りつかれたようになる。僕は暴君だよ。そしてきみもそうだ。それはわかってる、きみは甘やかし放題にされている。きみの魅力にちょっとでも完全でないところがあったら、僕はきみのようなわるい子には目もくれなかったろう。──云っておくがね、僕はきみに参ってる、それはきみが思ってるとおりだ。だが、僕はやさしくはないよ。僕はやさしい人間じゃない。といって別に残酷な人間でもないが、残酷にはなれる男だ。僕がきみに恋をした、ということは、僕がきみを徹底的に自分のものにしたいと思っている、ということだ。きみを僕はつかまえたと思って安心しているかもしれないが、僕の方では、これからゆっくりときみを飼い馴らしてやろうと思ってる。安心するのは、まだ早いよ、ジョニー、僕は甘ちゃんじゃない」 (わかってるよそんなこと。見てるといいや)  良の反抗的にふくらんだ思いを、そのとおり口に出されたというように結城は見てとったらしかった。彼は低く笑いだした。 「きみはしゃべるよりも、目や顔や、からだの線にものを云わせるのが得意らしいね。僕が、きみが何を考えているかぐらい、読み取れないだろうなぞと思わん方がいいよ。きみのからだがぎゅっとこわばったよ。不服なんだね──僕の全面降伏した血のしたたる心臓が欲しいのか。我々は、きっと、退屈しないだろうね。僕もきみのとおりに云うことにするからね──できるものなら、やってみろ」 (やってみるさ)  良は結城を見あげ、走りすぎる街の灯で、はっきりと挑むような生き生きした微笑をうかべて彼の目を受けとめた。彼は目を細めた。 「きみはすてきだ」  彼は甘やかすように笑い皺を寄せて呟いた。 「楽しい夜にしような。シャンペンと、マッシュルーム入りのソースをかけたヒレ・ミニヨンとワインと、アヴォカードと──それからいつも僕の行くジャズ・クラブに連れて行ってあげよう。『イン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート』をリクエストしよう。それから、きみに何か買ってあげようか。今夜は甘やかすと決めたから、何でもねだるといい。僕がそう決めてないときには何を云ったってだめだからね。そろいのオパールの、僕がカフス・ボタン、きみはペンダントでも買おうか。え? 僕はタイ・ピン趣味はないんだ」  結城はハンドルから手をはなして、良の髪をまさぐった。 「僕の肩にもたれなさい。いつかみたいに──きみの頭は、僕にもたれるのにぴったりの高さだからね。きみもだんだん僕の好みや信条がわかってくるだろう──僕がすてきだと思うかね」 「ええ」 「退屈してない?」 「いいえ」 「きみは考えていることを全然口に出さん子だから、僕はきみの表情や、顔色や、目の動きから読み取るほかないが──いまのは、どちらもほんとうだね。そういうことにしておこう。さあ、着いたよ」  車をレストランの駐車場にとめ、ドアをあける前に結城は素早く良の首をかかえよせて唇を求めた。良を、深い酩酊がつつみはじめている。結城の、彼流の恋の教育は、歌のレッスンよりもずっとすみやかに良の中の資質にふれて浸透してゆこうとしていた。良は半ばなときめきと苛立たしさと鋭いスリルを感じ、それはこの気まぐれなナルシスの投げやりな心を生き生きとさせ、酩酊にさそった。結城のふんだんにふりまく、贅沢と豪奢の香気も心にかなう。  すでに良は結城に馴れ、彼の与えてくれるものに馴れ、彼に苛立たせられたり、反撥したりするのさえ彼の魅力の一部なのだと知りはじめていた。  良は何かが向うから起ってくるのを待つような少年だった。その冷淡な稚い心は拒否や誇りに鎧ってはいたが、つよい意志に墾かれたこともなく、節操や深い考えに耕されもしなかった。  良は与えられたものを受けいれて、それに馴染んでゆく少年だった。あれほど滝を慕い、この少年に可能な限りの深部まで彼を食い入らせてはいたが、すでに結城が立ちはだかって前の残像を消せば、いつまでも彼のために忠誠を誓ってはいない。  どんなものでも、直接働きかけつづけることなしに、この少年に影響を及ぼしつづけることのできるようなものは存在していなかった。すべての事象は良の心を訪れては去る影にすぎない。だからこそ、良は何人に売られようと、どれだけ頽廃を経ようと、奇妙に純潔な瞳と肌を残しているのであったろう。  あらゆるものに順応するからこそ、なにものも良を染めることができないのだった。それが良の魔性である。良を裏切り、その咽喉に手をかけて、良を憤怒させたときには、まだ滝は良にとって、他とちがう唯一のもの、良がその裏切りのために動揺するだけの重みをもつものだった。結城が良の世界に入りこみ、良の関心をかき立て、良を抱きとろうとするそぶりを見せたときに、滝は良のなかから放逐された。良の欲しているのは自分に対する飽くことない関心と情熱と庇護なのであって、誰であれ特定の個人ではなかった。  結城の素早い接吻と力強い腕の抱擁の中で、良はすでに滝を忘れていた。だが、滝の方は、そうあっさりとはいかなかった。  その夜、良が結城に送られて帰ってきたのは、十時半ごろだった。楽しくすごしたあとの快さに頬が上気し、目がうるんで輝き、すっかり結城と彼の与えてくれるものに心をとられて、生き生きとして、どきりとするほどなまめかしかった。良はただいまを云い、滝には何の関心もなしでそのまま寝に行こうとした。  気まぐれな微笑に顔をほてらせながら、シャツをひっぱるようにしてぬぎ、投げすてる。ほっそりした、なめらかな背中が滝を無視して彼の前にさらされていた。彼は十時に帰ってきて、どうせおそいのだろうと思いながら契約書を調べてキチンのテーブルに向かっていたのだった。  門限は十一時の約束になっている。滝には文句のつけようがない。良のまるきり彼を物の数に入れていない楽しげに顔を洗っているようすを見ながら、滝の中にむらむらと疼き出す根深い激怒があった。彼は、そうでないことはひそかに知っていながら、同じじゃないか、良が遊びまわっておそく帰ってくる、おれはあまりお調子にのるようならひとつどやしつけてやろうと思いながら仕事をして起きている、良を待っている、ただ相手が山下国夫か白井みゆきでなくて結城修二であるだけのちがいだ、同じじゃないか、と自分に無理に云いきかせて、心中の異様な苦しさに耐えていたのである。  ジーンズ一枚ですんなりと痩せた上体をあらわに、かがみこんで風呂の湯かげんを見ている良の背中、指でなぞればいくぶん弓なりになったその脊柱がたどれる、ごつごつしてはいないがいかにも痩せて少年っぽい頼りない背中を滝はサングラスを外した、灼けつくような思いを底に隠した目でにらんだ。  良の外側に、あのときまではその中に滝をも入れたまま外界を拒否していた透明な一枚の膜が、いまでは滝をもはじき出してはりつめられ、しかもそれは日一日と強くぶあつくなっていくような気がする。 (悪魔め!)  滝のかつて知らぬ苦しいもの思いも知らぬげに、風呂の水をかきまわしていた良は立ちあがり、あけはなしのバス・ルームの戸口から滝の方へ首を出した。 「ぼく入るよ」 「きょうどうしたんだ。何か、先生は、お前に用だったのか」 「別に──晩飯くわしてくれただけ」 「で?──楽しかったのか? そのぐらい、云えよ。この次、先生にお礼を云わんといかんじゃないか」 「楽しかったよ、とっても」  とっても、と強める語調で良は云い、うるさそうに前髪をかきあげながら滝を眺めた。なめらかな美しい胸が、少し酒が入っているのか、ほんのりと紅潮している。ふいに滝は全身を煮えるような激しいものに侵されていきなりつっ立った。  やり場のない憤懣がどろどろと煮えたぎっているが、どうやってそれをほとばしらせたらいいのかわからない。そっけないが、むしろこの半月来たえず彼を怒らせ、苛立たせてきた小憎らしい反抗的な態度にくらべれば、機嫌が直ったといっていいくらい、穏やかな口調である。  だが、それは、ついぞ滝が使われたことのない口調──滝が、良が山下にいつも使っているのをきき、おれにあんな態度をとったら必ず張り倒してやるんだがとひそかに思ったような語調に似ていた。いたって機嫌よく、いくぶんうるさげな、その奥でぴったりと重い扉が閉ざされているような、員数外の相手に対する態度なのである。これっぽっちの誠実さも、真剣さもない、いいかげんな態度だ。  殺してやりたい、今度こそ、息を吹きかえさぬくらい、念入りに、その細い首をへし折ってやりたい、と灼けるように滝は思った。それからようやくそのあふれるような憤懣をぶちまけるきっかけを見出し、手当りしだいにそれをひっつかんだ。 「おい、良!」 「何?」 「お前は、失礼だと思わんのか、年長の者に、風呂までわかさせておいて、おさきにでもなけりゃ、いいですかもなく、平気でさっさと入ってさきに寝ちまうわけか?」 「なんだ──どっかのおばさんみたいなこと云ってらあ」  良は目を見張り、それからブロマイドの写真そっくりの、殴りつけたくなるような微笑を見せた。 「ごめんなさい。もう入ったかと思った。滝さんさきに入ったらいいよ」 「お前がさきに入るからわるいと云ってるんじゃない。礼儀のことを云ってるんだ。おさきに失礼しますとか、そのぐらいのことは云え。一体いくつになる、そんなことも自分で考えつかんのか」 「何むきになってるのよ」  良は肩をすくめた。 「じゃおさきに失礼します。それでいいんだろ」 「いい。気をつけろ」  もうバス・ルームの戸はしまっていた。はぐらかされた思いにまた滝は頭に血が上った。おれはどうかしているのだ、もうよせ、みっともないことになるだけだと思いながら、彼は自制しきれなくなって突進してガラス戸をあけた。  良は湯舟に入りかけているところだった。ひきしまった、羚羊のような少年の裸身が滝の目を射た。 「びっくりするじゃないか」  良は湯舟に身を沈めながら云った。茶色の目は、冷たかった。 「ひとが注意してるのに、何だその態度は。話してる途中でドアをしめるくらい失礼なことがあるか」 「だって気がつかなかった──」 「だってだってと云うな!」  滝はどうしようもない怒りのために真赤になっていた。良ははっきりした敵意をこめて、鋭く滝をにらみかえした。 「何怒ってるんだい。ぼくがどんなわるいことしたっていうの」 「うるさい、理屈を云うな」 「八つ当りじゃないか。やめて欲しいな、ヒステリー女みたいにかみつくのは」 「何だと! それが、目上に対する態度か、餓鬼の分際で」 「へえ、目上!」  良の目が鋭いきらめきを帯びた。反抗心にこりかたまって嘲弄の炎を燃えあがらせるとき、良はまったく悪魔の美しさと生気とをきらめかせていた。 「マネージャーって、目上だったのか。ぼくはまた、ぼくが給料払ってやってるようなもんかと思った──」  滝はそれ以上云わせなかった。風呂場にとびこんで、細い裸の肩をつかみ、思いきり反動をつけてひっぱたいた。 「出ろ」  滝は浴槽のふちに身をもたせて喘いでいる良を猛烈な目でにらみつけて怒鳴った。彼の肩も激しく上下し、目がすわっていた。良は顔色を変えていた。 「いやだ!」 「出てこい。きさまの、その口──どの口でそういうことを云うのか、見てやる。自分を何様だと思っている。うす汚い小僧を、拾いあげて天下のジョニーにしてやったのは誰のおかげだ。きさまはいつのまにそこまで増長した。その思いあがった根性を徹底的に叩きのめしてやるから、出ろ。出ろといったら、出ろ! ひきずり出して欲しいのか」 「わ──」  良は喘いだ。 「わるかったよ。ごめんなさい」 「何だと!」 「ぼく、つい口がすべって──ごめんなさい、嘘だったら。そんなこと思うはずないじゃないの……怒らないでよ。ぼくがわるかったよ。ほんと、許してよ」  良は大きな目に懸命な色を湛えて滝を見あげ、ここから出たら殺されるというように浴槽のふちにしがみついていた。  突然、激しい怒りをはぐらかされたいきどおろしさよりも、もっと痛切な悲哀が滝の胸をつきさした。良は、もう、滝にまともにぶつかって来ようとすらしないのだ。  真剣な葛藤のないところに、真摯な和解もまたありうるはずはなかった。滝は黙って良を見た。気負いこんで握りしめられていた手はだらりと体側にたれていた。  彼はひとことも云わずにバス・ルームを出、うしろ手にドアをしめて、まっすぐ居間の棚のところへ行き、ウイスキーをコーヒー・カップになみなみと注ぎこんだ。目をつぶり、咽喉をのけぞらせて、水でも飲むようにそれをごくごくと飲みくだしてしまう。  よろめくようにしてベッドへ行き、腰かけて、膝の上に肘をついて両手で顔をおおった。食道を灼き、胃を灼いて、酒がおりてゆき、体内をかけめぐるのがわかるようだが、それよりももっと怺えがたい、もっと深い苦痛が、滝の身内を灼きこがしていた。どうしろと云うんだ、と彼は独語した。 (どうしろって云うんだ──一体、どうすればいいって云うんだ……おれのしたことは、そこまで取りかえしのつかないことだったのか? 一体どんなふうにつぐないをすれば、お前は気に入るって云うんだ)  あれきり、ミミとも別れ、気まずい良との日々に自分の愚かしさと、殺意を抱いたりしたことのつぐないであると思えばこそ爆発もせず、良への憤怒もこらえるだけこらえてきたのである。滝は憤懣のあまりにやるせなかった。  彼はかつて、ひとのためにこんな苦しみややるせなさを味わわされたことなど、ついぞなかった。  良は、彼の指のあいだから、すりぬけていこうとしている。  信じてはいけなかったのだ。あれほど親密な、甘やかな、寄りそいあった信頼と愛情の空間を、信じたりしてはいけなかった。それは、良にとって、ただそれだけの──そのときかぎりのものにすぎないのだった。滝にとってのように、心の最も深い神聖な部分にきざみこまれ、どんなときにも生涯の最も美しい日々としてこがれるような切ないいとおしさで想うべき恋の神話などでありはしない。  良にとって、ひとに愛され、欲されることなど、珍しくもない日常茶飯のことなのだ。ただ相手が何も欲さず、献身的に良を抱きとめているあいだだけ、その献身が気まぐれな良の心にふれて、底なしに愛を欲しがり、貪欲に呑みこみ、すっかりもたれかかってくるのにすぎない。  とは云うものの、滝が、あの夜がすぎてから、いくどとなく思いかえして、最も切なく我身の愚かさとむごさが痛切に感じられたのは、ミミからのあの運命的な電話を良が取りあげてしまうわずか数分前に、寝に行く前にじっと彼を見つめた良の目だった。  この上ない、無垢な無防備な信じまかせきった目。滝が殺意を抱いてその咽喉に手をかけた瞬間に死んだのは、その目だったのだ。良が生命をとりとめたのは単なる運命の懲罰にすぎないというべきだった。  それを思うたびに、滝は身内が冷たくなり、いかな彼ですら自分のしたことが、どんなに酷い非道なことか知らずにはいられなかった。頼りきってふところに羽根をやすめていた小鳥、神聖な信頼をよせて見あげていた野生の美しい鹿を、血みどろの手で扼したような気が、彼にはしたのだ。その良の目を思えば、何と責められようと自業自得だ、という思いが深く彼の中で疼く。  しかし、そうして自らを責めている彼の前に良がその軽やかな、うわついた小生意気な姿を見せると、滝の中にはこらえようもない瞋恚がかけのぼってきてしまうのだ。 (この悪魔のような小僧に、なんでそんな深い感情や鋭敏な感性があるものか。なんだって、いつだって、行きあたりばったり、その時かぎり、成行きまかせの性わるなのだ。生まれついての売女なのだ。こいつは、おれの過失をよろこんでいる。そいつをつかまえて、おれの弱みを握って、ちくちくと苛められるからだ。おれがうるさくできないからだ。おれが全面降伏するのを口をあけて待ちかまえている。現に、このまえ怒鳴りつけて、あまり口答えするので打とうとしたとき、あいつの目が、ぼくを殺そうとしたくせに、と云うのを見ておれの手はすくんでしまった。しかもそれを奴は口には決して出さずに、どうやってだか確実におれに思い出させるのだ。そうだ、隠さなくたっていい、貴様はよろこんでる、面白がってさえいる、おれを好いて、頼っていたのだって、まんざらの嘘じゃあるまい。それがわるいのだ。  奴の心には何の深刻さも、罪悪感もない。ちょいとしたうしろめたさや、仕置きをされた猫のような腹立ちまぎれのかんしゃくや悲しさがあるだけだ。咽喉を撫でてやればごろごろ云う。叩けばふーっと爪を立てる。それだけでしかないのだ。おれの方はこれほど貴様のために、朝も、昼も、夜も、一日のうち一分でも一秒でも、貴様を思い、貴様のために苦しみ、貴様を恋しく思っていない時はないありさまだのに、貴様の方はあれだけ甘ったれて、からだをすりつけてみせたおれに、ちょいとした気にくわんことをしたというんで、もう知ったことかと後足で砂をかけるような真似をしている。  貴様は嘘つきじゃないさ。嘘つきなんかでありはしない。なぜって、貴様にはこれっぽっちだって、ほんとうの貴様なんかないのだからな。いかにも何かありそうにつんとして見せたり、強情を張ったりするが、生まれつきのあらゆる手管と、面倒くさいのがいやなどうでもいいというところと、薄情で考えなしでエゴイストなのをとりのぞけば、貴様の中身なんて何ひとつありゃしない。嘘をつくほどの真実なんかないんだ。次にいいように甘やかして咽喉をうまく撫でるこつを心得てるものがあらわれさえすれば、もうおれになんかはなもひっかけない始末だ。貴様はただやさしくして貰って、気にして貰って、甘いことばをかけて欲しいだけなんだ。しかもそうやって貰いながら相手が自分の云うとおりになると思うとたちまち図に乗って相手をばかにし放題になる。ではぎゅっと押さえつけてやろうと思って、ほんのちょっといたい目にあわせればたちまち気狂いみたいにひっ掻いて、騒ぎ立てて、反抗して、かみついて、逃げ出しだ。そしてもう二度と、いくら猫撫で声を出しても、ミルクを見せても、怒って見せても、手の内は割れてるんだというせせら笑いで、例によってのその場かぎりののらくら戦術だ。  貴様のようなわるい餓鬼はない。こんなに思いどおりにならぬ、始末におえない、あまのじゃくな小僧は見たことがない。なぜおれはこんなにわるい奴に惚れてしまったんだ──貴様が、手におえなければ、おえないほど、苦しんで苦しんで、深みにはまってしまうんだ? 滝俊介ともあろう者が──これでもいくらかひとよりはよけいに、人の心の裏おもても見、それをあやつることに妙味も見つけていた男が──どうすることもできない。貴様のそのけしからん嘘でかためた生命をこんどこそ確実に踏みつぶしてやることさえできない。貴様のその、おれなんかどこの誰だかも忘れちまったというすまし顔を見ていると、おれは情けなくて泣きわめきたくなる。卑屈にも貴様の足もとに身を投げ出して、ころげまわって、許してくれと哀訴したくなる。それをしないのは、そうしたって、ただ貴様を面白がらせ、鼻さきで笑わせるだけだってことが目に見えているからだが──おれは苦しい。おれには何もできない。貴様を忘れることも、──とんでもない! ──貴様をはなれることも──死ぬのと同じことだ──貴様に許してくれと哀願することも、自尊心を踏みにじって貴様の奴隷になることも、貴様に鞭をふるうことも、もう一度その細っ首に手をかけることも──できない。前には平気でできたのに──ときどきは、そうしたい衝動を必死で貴様のそのひ弱なからだのために耐えなければならなかったのに、貴様のからだを力ずくで自由にしてやることさえできない。おれの中にあさましい打算が巣食ってしまって、この上罪──罪! ──さえかさねなければ、いつまた貴様の気まぐれなご勘気がとけぬものでもないなぞと考えてしまうからだ。  前にはおれはいっぺんだってこんなに弱気になったことはなかった。おれは貴様のその必死になって許してくれと哀願する細っこいからだを無理矢理に弄んで、いたみに泣きわめかせてやるのがむしろ耐えられないくらい快かったし、貴様の御機嫌を気にする前にパンパンと手がるに張りとばしてやったものだ。そしておかしなことに、おれがそういうようにふるまったもので貴様はおれの前で、見せかけの従順やいやらしい媚でなくて、我儘いっぱいの、鎖につながれてはねまわっているライオンの仔みたいなありのままの貴様をぶつけてきたのだ。おれのしめつけが奴をほんとうにいたい目にあわさぬあいだは──おれを頼り、おれの手の中で安心して眠り、暴れ、我儘にふるまい、おれを好いていた。何て奴だ! ──それがおれの主権がゆらいだが最後……ちょっとでもおれが、自信をなくし、弱みをつかまれ、圧制的にふるまえなくなったとたんに、おれを無視し、そのへんのつまらん有象無象と同様に扱い、おれがうるさいと手っ取り早く鼻声で丸めこもうとし、それでもうるさくすれば何の未練もなくおれをふりすててしまうだろう。おれが耐えられない、それにだけは耐えられないのをちゃんと知っていて、──おれが作った奴なのに……おれが見つけ、拾いあげ、育て、みがき、売り出し、輝かせ、ハクをつけて、原石から誰にも涎を流させるダイヤに作りあげた奴なのに──母がわり、父がわり、おれがすべてをやったというのに──たったいっぺんの過失で! おれには申し開きの場所も、やり直しのチャンスも与えずに、おれの指のあいだから──だが、どこへだ? 良、どこへだと思ってるんだ……貴様が、おれに見替えて逃げこもうとしているのは、どこだと思っているんだ!)  それもまた、滝を最も苦しめ、さいなむことだった。はじめから──彼の手から逃れてよろめき出た良が結城修二に偶然拾われたと知った瞬間から、滝は不吉な宿命の小車のざわめきをきいていたのだ。  結城と良とはあまりにも、ぴったりと似つかわしすぎるアポロンとナルシスとの一対だった。それは太陽と月、陽極と陰極のように互いにひきつけあっていた。  良の苛立ちや結城の鋭い目に、しだいに食い入ってゆく互いの心の成行きを見てとれぬ滝ではなかった。彼はどんなにきびしい裁き手でさえそれでは酷すぎると思うであろうほど、酷い不安と苦悩とを一身の奥深くに押しこめて、じっとふたりを見守っていた。  はじめに良の曲に、山下のあとがまに結城をと云い出したのは皮肉にも滝自身である。そして、こうなっても彼はマネージャーだった。結城修二、天下の結城修二に曲を書いて貰うことは、名実ともに良がトップ・クラス中のトップ・クラスにのしあがったことを意味した。  それを自らさえぎろうとするのは、アイドル・スター≪ジョニー≫のプロデュースにすべてを賭けて、それゆえにこそ良を愛した彼自身の存在を否定するにひとしかった。  滝の苦悶はひそめられ、ただ誰にも、良にすらのぞかせぬことだけが彼の矜持になった。サングラスの奥で、彼の顔はつねに人当りのいい笑いをうかべていた。だが、彼の目は、何ひとつ、彼自身を拷問するあらたな進展、あらたな成行きを見落せない目なのだ。  今夜の、楽しげに頬を紅潮させた良の表情には、≪恋≫のほのかな曙光がまつわりついていた。それが遠からず発展して行くべきところへ行きつくであろうことも滝にはわかっている。山下や、他の、良のからだを通りすぎた男たちとはちがう。良と結城とは互いにふさわしい。ふさわしすぎる。  滝の苦悩はようやくその全貌を明らかにしようとしていた。  滝は結城修二がこよなく好きだった。その美貌、物腰、生き方、愛人たち、王者の風格と少年の情熱、男として最高の人間だと思い、もし許されるなら彼のようでありたかったと常に思っていた。またもし滝が自らの能力、容姿、性格などに人並みの恃むところはある男でなかったら、武田晴信を愛してその天下とりに生命を捧げた山本勘助のように、結城に影のようにつきそいたくも思っただろう。  幸か不幸か滝もまた一個のしぶとい男ではあった。だが、夢ですら結城に張りあうことができるなど考えたこともない。彼は自分の二流たること、裏方であり、悪人であり、影の存在であることこそ性にあっているのを知り尽していた。  そんな彼が良を愛したのは、失敗だったかもしれない。だが運命なのだ。良は生命だった。他の男ならば、競いようもある。だが、結城修二を相手に、すでに良の心も失った彼が、何をなしえただろう。  滝の苦悩は日に日に、その一点へ集約されようとしていた。結城とでは、争いにならなかった。彼は、良と結城がしだいにひかれあってゆくのを、ただ見ているしかできない。 (──苦しすぎる。酷すぎる。そんな罰に値するのか、おれの罪は)  滝は呻いた。良が風呂からあがったらしい。まもなくこの室にきて、となりのベッドに、だが心は一光年も遠くはなれて、よこたわり、すぐ寝入ってしまうのだろう。滝はよろめくように立って服をぬぎ、布団にもぐって頭までかぶった。  それでも彼は強い男だった。その苦悶は彼を殺さず、彼を乱させず、泣かせもせずに、彼はじっと耐えて穏和な顔を見せているのだ。滝はふとそんな自分を深く憎んだ。 [#地付き](5につづく) 〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年八月二十五日刊